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    ペルー、ワヌコ州コトシュ遺跡(模型)。上段:ニチットスの神殿、下段:交差した手の神殿。1960、1963、1966年の発掘成果に基づいて製作。高さ15cm(SAA-CP7)

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    交差した手の神殿は1963年に完掘された

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    交差した手の神殿をデザインした2013年発行の1ソル硬貨

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B55
コトシュ・ミト期の2つの神殿
神殿から始まったアンデス文明

東京大学アンデス地帯学術調査団は1960年代に、ペルー北部山地ワヌコ州のコトシュ遺跡の最深部にて、土器を伴わないコトシュ・ミト期(約4500~3800年前)の神殿群を発見した。当時の定説を覆し「アンデス文明では神殿の登場が土器製作に先立つ」ことを立証する画期的な成果であった。文明の起源の解明を研究課題に掲げた団長の泉 靖一は、この発見を前に「はじめに神殿ありき」との言葉を発した。なぜ文明は神殿から始まるのか、調査団は泉の没後も各地で神殿遺跡の調査を重ね、約40年かけてその理論化を果たした。鍵となるのはコトシュでのもう一つの重要な発見、神殿の重なり合いであった。それは神殿を埋め、新たな神殿を築く周期的な「神殿更新」の儀礼があったことを示唆している。神殿更新の必要性から人口増加・社会の組織化・経済の安定・技術革新・宗教思想の洗練が促され、それによりさらに大規模な神殿更新が可能になる。神殿はこのような正のフィードバックをもたらし、予期せぬ結果としてアンデス文明が萌芽したのである。

展示物はコトシュ・ミト期の「交差した手の神殿」が埋められ、その真上にほぼ同型・同規模の「ニチットスの神殿」が築かれた様子を半裁して表した模型である。実際に1960年、交差した手の神殿はほぼこのように半分だけ掘り出され、壁面に交差した手のレリーフ(261頁参照)が発見されたために命名された。ニチットスの神殿は小壁がん(ニチットス)を多数持つためこの名となった。正方形の室内はいずれも中央の床面が一段低く、中心の円形の炉に床下通気口が接続している。交差した手の神殿は周囲より高い基壇の上に載っていたが、その内部が埋められたのち、それ自体がニチットスの神殿を載せる新たな基壇に転用された。

1990年代より海岸部を中心に土器を持たない神殿が多数発見され、今日では多くの研究者が、アンデス文明の画期は土器ではなく神殿の登場であると考えている。コトシュは今なお山地での最も充実した調査成果であり、炉を囲む室内での儀礼を指す「コトシュ宗教伝統(Kotosh Religious Tradition)」、2段の床など山地に特有の建築様式「ミト伝統 (Mito Tradition)」といった術語が定着している。 (鶴見英成)

参考文献 References

泉 靖一・松沢亜生(1967)「中央アンデスにおける無土器神殿文化-コトシュ・ミト期を中心として」『ラテン・アメリカ研究』8月号: 39-69。

加藤泰建・関 雄二(編)(1998)『文明の創造力:古代アンデスの神殿と社会』角川書店。

大貫良夫・加藤泰建・関 雄二(編)(2010)『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版。

Izumi, S. & Sono, T. (eds.) (1963) Excavations at Kotosh, Peru 1960. Tokyo: Kadokawa-shoten.

Izumi, S. & Terada, K. (eds.) (1972) Excavations at Kotosh, Peru, 1963 and 1966. Tokyo: University of Tokyo Press.