E7
濱田隆士コレクション
物集めの生涯
濱田隆士東京大学名誉教授はかつて教養学部で、古生物学・地質学・自然誌学の教鞭をとった学者である。博士には、博覧強記という言葉が当てはまるであろう。何から何まで記憶にとどめ、それを基に無制限無秩序に物を集め、記載と解析を続け、大量のものを残して、生涯を終えた。
濱田博士は1933年に生まれている。本土で空襲を経験し、高度成長期の飢え乾く社会で育ったと述懐していた。私は教養学部に入学したときに、博士と出会った。公式の師弟関係になったことは一度もないのだが、学者としての本質核心を濱田博士から教授された。言葉も知識ももちろん無限に教え込まれたが、ひとつだけ取り上げるなら、博士の日々の生き方が今の私の学者人生を決定づけているといえる。
駒場の狭い教授室に窮屈そうに腰かけて、つねに標本を凝視し、つねに筆を執っている。十八歳の私を、博士は見守ってくれていた。いつもにこやかに。そして、実はいつも大量の標本にうずもれながら。
東京大学退官後、神奈川県立生命の星・地球博物館と福井県立恐竜博物館の両館で初代館長を務めた。そして、亡くなった後、博士が残された遺品を東京大学総合研究博物館で引き取ることになった。たくさんの同窓がそれを助けてくれた。そのうちごく一部の200箱ほどの遺品の箱が、UMUTオープンラボの壁に並ぶ。博士はあまりに物集めに狂ったがゆえ、たくさんの人や場所に迷惑をかけた教授だろう。現に、身寄りのない自宅周囲に、トラックを5台も6台も連ねないと運べないほどの大量の標本を残したまま、亡くなってしまった。
もちろんこうした物の遺し方が教科書的に品行方正かといえば、そうではない。しかし、学者は、学問は、いつの時代にもこう生きなければならないのである。ただルールを守り、ただ経営を妥当にこなし、ただ説明責任を満たし、ただルールを守るだけの人物の頭数を揃えたところで、市場原理的経営成績は維持できるかもしれないが、その程度の頭脳では学問も文化も大学も博物館も築けない。それでは、社会の期待に応えることは不可能なのだ。その程度の能力では、けっしてUMUTオープンラボは魂を得られないのである。
だからこそ、UMUTオープンラボには濱田隆士に居てもらわねばならない。死してなお、その博覧強記を人類に見せつけてもらうために。(遠藤秀紀)