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明治時代の貝殻はなぜ500年前の年代を示すのか
Chronosphereで生み出される知の広がりは、試料の多様性にも反映される。これらは明治時代に生物学者によって採取された二枚貝標本である。サハリンで1906年(明治36年)に採取されたエゾキンチャクの放射性炭素濃度を測定して、半減期から年代値に換算すると基準年の西暦1950年から869年前(BP)となる。東京湾で1882年に採取されたシオフキは536年前、英虞湾(三重県志摩)で1905年採取のエガイは487年前、小笠原の父島で1894年に採取されたシラナミガイは504年前という結果だった。なぜ採取年と大きな違いがあるのか、その秘密は地球上の大気と海水を巡る炭素の大循環にある。
放射性炭素年代は大気中の放射性炭素濃度を一定(約1兆個に1個)と仮定して、計算される。しかし、同時代の炭素でも大気と海洋ではその濃度が異なることが知られている。それは、大気上層で宇宙から飛んでくる放射線である宇宙線と反応して放射性炭素が一定の割合で生産されるのに対し、深海に閉じ込められた炭素では放射性炭素は減衰する一方であるからだ。大気中の二酸化炭素濃度が上昇することで地球が温暖化することが指摘されるようになり、地球全体で炭素がどのように循環しているかが、詳しく研究されるようになった。大気中には約7500億トンの炭素が含まれているが、海洋表層には約1.4倍の1兆200億トン、海洋深層には51倍の38兆100億トンもの炭素が溶け込んでいる。それに対し、大気から海洋表層に拡散する炭素は920億トンに過ぎないと見積もられている。
大気上層でつくられた放射性炭素が海洋深層にまで到達するには大変な時間がかかってしまうのだ。大気と海洋表層、海洋深層、陸上の生態系と土壌を大きな炭素の貯蔵庫として見なすこのモデルでは、それぞれを炭素リザーバと呼ぶ。それぞれの炭素リザーバの間では、放射性炭素濃度は平衡になっておらず、同じ時間でも放射性濃度が異なるため、見かけ上の放射性炭素年代が一致しないという問題がおこってしまう。炭素の交換速度と各リザーバの大きさから計算すると、海洋表層では大気よりも約400年見かけ上の炭素年代は古くなることが知られており、「海洋リザーバ効果」と呼ばれる。約100年前に採取されたシオフキやシラナミガイが500年前という年代を示したのは、海洋表層のリザーバの年代を示したからと考えることができる。
それでは、なぜサハリンのエゾギンチャクは900年近い古い値を示しているのだろうか。それは、海洋リザーバ効果の影響が海域によって異なることが原因だ。深層をゆっくりと循環する間に海水に溶け込んだ炭素では放射性炭素が減少する。その深層水がわき上がる影響を強く受けると、生物体内の放射性濃度も低くなってしまうのだ。私たちは、総合研究博物館に保管されている貝殻の年代を測定することで、日本近海ではオホーツク海が深層水の湧昇などの影響をうけ、非常に古い海水の年代を持っていることを発見した。 (米田 穣・吉田邦夫)
参考文献 References
Yoneda, M. et al. (2007) Radiocarbon marine reservoir ages in the western Pacific estimated by pre-bomb molluscan shells. Nuclear Instruments and Methods in Physics Research B 259: 432-437.
Yoshida, K. et al. (2010) Pre-bomb marine reservoir ages in the Western Pacific. Radiocarbon 52: 1197-1206.
Siegenthaler, U. & Sarmiento, J. L. (1993) Atmospheric carbon dioxide and the ocean. Nature 365: 119-125.