学術標本との対話

およそ学問の多くは、一次資料を見つけ出すことから始まるといえるだろう。一次資料とは、たとえば地質学なら岩石や鉱物や化石であり、動物学なら死体や骨や臓器であり、歴史学なら発掘された石器・土器や古文書である。人間が物を考える場面に必ず生じるのが、こうした物の収集と枚挙だろう。単数の物品や単純な配列や把握できるくらいの数からは、理は生まれにくい。いきおい、物がうず高く積まれる場所が、つねに学問と文化の発祥の地となる。

研究する者は、第一に収集癖という一種の病と共存している。石や死体や文書を網羅的に集めなければ学問を築くことはできない。個々の研究テーマに解明すべき目的が厳密に立てられているのはいうまでもないが、それは短期集約型の収集によって成し遂げられるものではなく、平時から大量の物を集めていなければ、世界水準で真理に至ることはできない。だから、学者は学術は、物の蓄積を始める。そしてそれを永久に継続し続ける。止めたらその瞬間に、考えるべき内容が欠乏するからである。

収集の次に待っているのは既存の知に基づく整理である。岩石なら石に分類体系があり、動物は進化史に従って整理されることが多い。土器も文書も知識と理論に従って厳格に配列される。緻密な整理と配列が、理論の第一歩となる。だからかつては生き物を知ろうとしても歴史を知ろうとしても人間を知ろうとしても、物証の類型と配置が、学者の注力の大部分を占めた。そして現在までに、多数の学術資料が、新たな知を開拓する出発点に立ってきた。

ここまでの営みこそ、UMUTオープンラボが見せる博物館の収蔵庫の仕事だ。

UMUTオープンラボでは、大量の知が、多くの学者が関わる解析と理論化に貢献していく。つまりUMUTオープンラボに見られる標本群は、新しい発見がなされ、新しい理論が発表され、新しい考え方が人々に広まる前段階で、学界が築いておかなければならない人類共通の宝物、知の源泉なのである。

他面で、いつからか、社会は知の源泉を大切にしなくなっているといえるだろう。それは、合理主義や経済依存や物質文明の先鋭化にともなって顕著になっている。昨今、学問といえば、往々にして技術の華やかな商業化や経済活動への貢献ばかりが社会を賑わしている。しかしいつの時代も、自然や歴史や人間自身を考える学問の最前線は、標本による知の源泉を継承し、拡大していなければならない。物の豊かさや合理的な経済以前に、根源的な人間存在の証しとして人類が温め続けていくべきものは学問と文化である。

そしてその中心には、標本と人間との対話が在る。

遠藤 秀紀・楠見 繭