モンゴルはとてつもなく広い国で、面積は日本の4倍ほどもある。ウランバートルは中央の北にあり、乾燥したモンゴル全体からすると比較的湿り気があり、部分的ながら森林もある。ウランバートルの北東にブルガンという地方がある。研究の発展から、昨年からここで調査をするようになった。これまでの調査では草原にテントを張ったり、国立公園の宿舎に泊まったりしてきたが、ここではチョローンさんという方のゲルにお世話になることになった。チョローンさんは牧民であるから、モンゴル人の生活や社会についていろいろ聞くことができる。ただし牧民とはいっても「純粋の牧民」ではない。50歳半ばまで測候所で働いていた研究肌の人で、奥さんのスレンさんも小学校の先生をしていたインテリだ。停年になったので、牧民生活を楽しみたいということのようだ。チョローンさんは態度が科学的なので議論を好む。それでいてモンゴルの大人にある、大らかさをもっている。奥さんのスレンさんは働き者で、いつでもなにかをしている。あるときいっしょに森にギョウジャニンニクを採りにいった。森のなかを歩いてギョウジャニンニクをみつけたとき、
「葉っぱだけを採って地下は残しておいてね、根こそぎはだめよ。」
といった。そうして
「そうすればまた来年生えてくれるからね。」
と付け加えた。
こういう精神が自然の中で生きることを可能にしているのだ、あるいは自然の中で生きて来たから、このような考えができるのだと思った。これは西洋文明が大きな回り道をして、ようやく辿り着いたものではないかとも思った。
そういう夫妻だからモンゴルや草原、牧民生活などについて聞くにはつごうがよいことが多い。文字通りの牧民の場合、質問の意味を解さなかったり、気に入らなければ返事をしないことも少なくない。家畜を相手にし、大自然に生きる人はどうしても無骨でありがちだ。それはそれで魅力なのだが、会話には手こずることが多いのだ。
いろいろな話をしているうちに、私が動物の頭骨を欲しがっていることが伝わった。話を聞くと、友達にハンターがいるから声をかけておくので、冬になったら手に入るかもしれないということだった。キツネやリスなどがいるということだったから、楽しみにしていた。去年の8月のことだった。
今年(2007年)7月、満を持してチョローンさんを再訪した。私は待ち切れない気持ちを抑えて、挨拶をしたり、今年の草のようすの話をしたあとで、聞いた。「頭骨は集まりましたか?」
「はい、はい」と答えたのはスレンさんのほうだった。そして「オオカミもありまうだった。そして「オオカミもありますよ。」と付け加えた。
胸が高鳴った。私はすぐに見せてほしいといったが、冬営地に置いてあるということで、翌日の夕方、持ち帰ってくれた。それは見事な大きさのものだった。
私はそのオオカミの頭骨を手にとり、しげしげとながめ、触った。。私の中に何か激しい想像が巡った。
『この森を走っていたのだ。』
チョローンさんのゲルの西にはダフリアカラマツの林が広がっている。私はオオカミがこの森に生きる姿を想像した。ときに家畜も襲うことがあったかもしれないが、この森を徘徊し、巣にすみながら、ウサギやノロジカなどを捕って暮らしていたに違いない。子供のとき巣穴できょうだいとじゃれ合ったことだろう。初めて狩りをしたときは失敗したかもしれない。いろいろな経験をつんで、立派なオオカミに育ったのだろう。
巨大な裂肉歯をながめながら、私はいろいろと想像した。存在している場所が、そのオオカミが生きていた場所であったことために、それは私がこれまで手にしてきた無数の骨とはまったく違う存在感を抱かせるものだった。
翌朝、私はこのオオカミの頭骨をもう一度ながめたくなって、薪に使うために集めてあるカラマツの材があったので、その上に置いてみた。矛盾することだが、「生きている」ような気がした。このオオカミの生と死が目と鼻の先にあるということに不思議な感動を覚えた。それは博物館で展示したどの頭骨からも感じたことのない類の感動であり、同じ頭骨がどこに在るかによって見る者の受けとめ方がいかに違うかということへの驚きでもあった。
思えば博物館の標本は自然界からばらばらに取り出して集積したものだといえる。それは自然界からの抽象と言えよう。そのような骨から動物の生きているときの状態を復元するのはむずかしい。私はそのような標本から生態情報を探り出す努力をしてきたつもりだが、それでもそれが可能なのは出自の明らかなものに限られる。だが考えてみれば、博物館の標本によって「死物学」ではなく「生物学」を進めるのであれば、標本に生きているときの情報がどれだけ添付されているかは非常に重要なのだといわざるをえない。博物館の収蔵標本にそのような生き生きとしたストーリーを語らせるには、従来の標本ラベルを改める必要があるように思う。
ついでながら、モンゴルの草原−ということはこの国ではいたるところ−を車で走っていると、あちこちに動物の骨を見る。いちいち立ち止まっていては先に進めないほど、ごく普通の存在である。オオカミの頭骨を見て以上のようなことを考えたあとで、ウシの頭骨を見つけた。このウシもこの草原で草を食みながら一生を終えたのであろう。そして、それまでには考えたことのなかったことだが、草原にある頭骨というのは博物館では絶対に見ることのできないすばらしい「展示」であるように感じた。それは、このウシがそこで一生を遂げたからという見る側の思いがそうさせるというところもあろうが、草の緑や日射し、背景の丘などとともに、純粋に「見て美しい」ものとしてすばらしく感じられた。それはいかなる博物館の展示にも真似できないものだった。同時に、博物館の展示には、この感動に少しでも近づくことを追求してはどうだろうかとも思った。
モンゴルの自然の中で見たオオカミの頭骨は、そういうことを考えさせてくれた。