死体に接する機会が極端に少なくなったことが、現代社会の奇妙な特徴だといえるだろう。かつては爺ちゃん婆ちゃんの死を子が見取り、孫は子の肩越しに死体を望んだ。それが、核家族化した家庭では、死は家の畳の上から切り離され、どこかの老人介護施設に囲い込まれてしまったようだ。昭和40年に東京の下町で生まれた私には、夕方になると街角で鶏が“絞め”られ、編みかごを手にした主婦が、気の利いたその日の晩餐として死体の一部を持ち帰るのを目にしたものだ。それがいまや、食鳥検査などと銘打たれて、隔離された処理場の内側で、死体は鳥の原型をとどめない肉の塊に化けてしまう。住宅地には小奇麗なスーパーが立ち並び、動物の死をもって生み出されたはずの食肉が、まるで合成樹脂の工業製品さながらにパック詰めされ、無造作に通貨と交換されていく。後は、命の有無を感じさせることなく、肉の塊が人々の胃袋を通り過ぎていくだけだ。 死せる動物の体が、世の中から消え去った。代わりに現出したのは、死体が誰からも抵抗無く焼却される、それ自体が奇怪な近代社会だ。そうした社会では、動物の死体に至っては、ただの生ごみでしかない。
誤解ないように説明するなら、私は死体を拝むことで心を満たそうとする信仰心厚き教徒でもなければ、古典畜産農家へのノスタルジーに浸る有機農法の語り部でもない。私の仕事は、現代社会の無関心に取り巻かれて滅失していく死体から、いくばくかの知を残そうとすることだ。そう、生ごみを知に変えるのが、私の仕事なのだ。私がそう生きてみせることで、わが「遺体科学」は輝きを増していく。
今日の相手はマレーバクだ(図1)。19世紀の博物学時代に死ぬことができたなら、万物を作り終えた神が残された部品を適当に組み合わせて拵えたというこのけったいな被造物は、欧州の自然史博物館の大切な標本として相応の敬意を払われたことだろう。だが、なまじっか21世紀の技術先進国の動物園で生涯を閉じたがために、ルーチンとして焼却炉へ送られてしまうかもしれない境遇にある。
遺体科学はこの死体を無駄にはしない。確かにマレーバクは地味な獣かもしれない。しかし、どんな死体にも、必ず謎が残されている。私は、しばし腕を組んで考える。そして死体に向けて、問う。「お前が隠している謎は、一体なんだ?」と。
遺体を前にして、しかるべく切断作業に入っていく刃先の動きも、死体から謎を見つけ出す感受性も、そしてその謎を白日の下に解き明かしていく論理も、遺体科学の能力のうちだ。すべてを動員して私の仕事は進む。私の遺体科学が実力を問われている瞬間なのだ。
いまバクが私に見せつけてくるのは、まずその鼻だ。目の前のバクは、なぜこんな中途半端な長さの鼻を虚空に曝したまま、息絶えてしまっているのか。
見る者にこの鼻の形が感じさせるものは、ダーウィン以前の“論理”なら、神が冗談半分に楽しんだ創造の余興だったかもしれない。私には、旧約聖書に異論を唱えなかった彼らが出した“答え”を嘲笑する気にはなれない。なぜならば、たとえ真実をつかむ力がなかったとしても、彼らが遺体を前に感じた学究の熱意を、彼らが後世に物を残そうとした知的欲求を、いま私は感じ取ることができるからだ。しかも、彼らが陥った誤った結論は、科学的客観性の物差しから見れば確かに稚拙だが、好奇心をもって真理に取り組んだ人間たちの足跡としては、十二分に味がある。
いま、夢を喰って生きるかの獣を見て、進化論を知る私が、その鼻に見つけ出すことのできる真実は何か。そしてその中途半端な鼻先の存在の説明に、どれほど史実と近い論理を築き上げることができるだろうか。わが遺体科学は、ひょっとして、“創造の余興”くらいに誤謬に満ちているかもしれない。左様。遺体科学が立ち向かっている謎は、無限に大きいのだ。だからこそ、今日も私は生ごみにされそうな遺体を拾い、切り、そして考える。
「お前が隠している謎は、一体なんだ?」と。