常設展
時を越える自然の証人 −東京大学収蔵・植物標本−
池田 博 (本館准教授/植物分類学)
清水晶子 (本館キュラトリアルワーク推進員/植物分類学)
そこに「ある」、あるいはそこに「あった」ことを示すもの。その最も確実な証拠は実物標本である。
東京大学はその設立当初から日本の、後には日本に限らずアジアを中心とした地域の植物相(フロラ)を分類学の立場から解明するため、植物標本を蓄積してきた。明治、大正、昭和、平成と時代を越えて集め続けられた標本の数は170万点に達し、現在もなお調査や研究の成果として増加し続けている標本数は、年間数万点にも及ぶ。
収蔵システムとしてのおし葉標本
植物の標本には、いろいろな様態のものがある。果実や種子などをそのままの姿で乾燥させた乾燥標本、アルコールやホルマリンに浸けて瓶の中に封入した液浸標本、木材や化石などを薄く切ってスライドグラス上に固定した薄片標本などもあるが、通常作製される標本はおし葉標本である。
おし葉標本は、植物体を新聞紙などではさみ、その両側を吸水紙ではさんで圧力をかけて乾燥させ、それに「どこで」、「いつ」、「誰が」採集したか、などの情報を記入した紙片(ラベル)を添付すれば完成である。標本庫に収蔵する場合は、植物体とラベルを「台紙」と呼ばれる厚手の紙に貼り付ける。
おし葉標本は、ほかの様態の標本に比べ、コンパクトに収納することができる。おし葉標本は上下に圧搾され、ほぼ同じサイズの台紙に貼り付けられるため、標本を上下に積み重ね、二つ折りにした紙(標本カバー)に挟み、多数の棚で仕切られた標本箱に収納することによって、一定空間に効率よく多数の標本を収納することができる。また、おし葉標本は、一度完成させたら、標本を食べる昆虫などによって損傷されない限り、半永久的に保存が可能である。東京大学にも170年以上前の標本が保存されている。
東京大学植物標本室収蔵の標本
東京大学の植物標本室(ハーバリウムと呼ぶ)に収蔵されている標本は、歴代の東京大学植物学教室関係者が収集すると同時に、広く国内在住の植物研究家らによって集められたり、さらに国内外の標本室との交換をおこなったり、寄贈を受けたりすることにより充実が図られてきた。
生物には、同じ種であっても場所や生活環境により形態や行動、生理的機能などに違いがみられる。これを「変異」と呼ぶが、生物を分類する際には、変異を正しく把握する必要がある。したがって、標本を収集する際には、多様な種の標本を集めることはもちろんだが、同種と考えられるものでも、分布域全体にわたるさまざまな場所で採集された標本を集める必要がある。今回の展示では、東京大学植物標本室に収蔵される標本がどのように蓄積されてきたかを紹介する。
明治以前
おし葉標本の歴史は長く、ヨーロッパではすでに16世紀に植物を乾燥させ、紙に貼り付ける方法が確立されていた。日本でも江戸時代の本草学者により、植物体を乾燥させ、和紙に貼り付けたものを綴じたものが残されている。
アジサイで有名なシーボルト(P. F. von Siebold, 1796−1866)は、日本で多くの標本を採集してオランダに持ち帰ったが、日本には標本を残していない。しかし、東京大学は、2000年に日本とオランダの修交400年を記念して、オランダ・ライデン大学植物標本室(ライデン大学国立植物学博物館)からシーボルトとその後継者が収集した標本の一部の寄贈を受け、現在までに約500点余りのシーボルト植物標本コレクションを収蔵している。
また、標本室間の交換により、ヨーロッパなどで採集された古い標本も収蔵している。
明治期
明治10年(1877年)に東京大学が設立されると、植物学教室の矢田部良吉(1851−1899)、松村任三(1856−1928)、大久保三郎(1857−1924)を中心とした植物標本の収集が始められた。明治19年(1886年)に出版された「帝国大学理科大学植物標本目録」によると、当時の東京大学植物標本庫の収蔵点数は約3000点とされている。
しかし、当時は日本の植物を研究するには標本や文献などが不足しており、日本の植物の研究はもっぱら外国人研究者の手によりおこなわれていた。ロシアのマキシモウィッチ(C. J. Maximowicz, 1827−1891)は、須川長之助(1842−1925)などを雇って日本国内の植物を採集させ、標本を送らせている。また、フランス人宣教師フォーリー(U. J. Faurie, 1847−1915)は布教のかたわら全国各地で標本を採集し、本国に送っている。
しかし明治の後半になると、日本人の手による植物研究も盛んになる。中原源治(生没年不詳)は、樺太や台湾で採集をおこなった。牧野富太郎(1862−1957)は全国各地で数多くの植物を採集するとともに、それらの標本をもとに多くの新種を発表した。また、松野重太郎(1868−1947)は地方初の植物研究組織である横浜植物会を結成した。
大正〜昭和初期
国内では東京大学関係者や全国の植物研究家などにより採集された標本が蓄積され、標本室は充実してくる。東京大学植物学教室の早田文蔵(1874−1934)、中井猛之進(1882−1952)、小泉源一(1883−1953)は全国各地を訪ね歩き標本を収集するとともに、多くの新種、新変種などを記載し、日本の植物相の解明に貢献した。正宗厳敬(1899−1995)や津山 尚(1910−2000)は当時交通不便だった屋久島や小笠原の植物相を明らかにした。一方、本田正次(1897−1984)はイネ科、木村有香(1900−1996)はヤナギ科、佐竹義輔(1902−2000)はイグサ科やイラクサ科、伊藤 洋(1909−2006)はシダ植物のオシダ科など、前川文夫(1908−1984)はギボウシ属やカンアオイ属、原 寛(1911−1986)はユキノシタ科、木村陽二郎(1912−2006)はオトギリソウ科に関する種属誌的な研究をおこなうなど、個別の植物群に関する分類学的研究も進んだ。また、久内清孝(1884−1981)、前原勘次郎(1890−1975)、沢田武太郎(1899−1938)、西原礼之助(生没年不詳)らは、日本各地で精力的に採集をおこなった。
とくにこの時代には、新たな資源植物をもとめて、日本が領有していた台湾や朝鮮半島、あるいは東南アジアの島々から標本が集められた。早田文蔵や田代安定(1856−1928)は台湾やインドシナの、中井猛之進や内山富次郎(1851−1915)は朝鮮半島の、津山 尚はミクロネシアやニューギニアの、北川政夫(1910−1995)は中国東北部の植物相を明らかにするために標本を収集し、標本を比較検討して地域植物誌をまとめ、多くの新種を発表した。
昭和(戦後)〜現在
大井次三郎(1905−1977)の「日本植物誌」(1953)などの刊行により、日本の植物相は一通りまとめられたが、その後も新たな種が発見され続けている。また、変異の解析や細胞学的解析により、同種と考えられていたものがいくつかの種からなると認められるようになることも、逆に別種と考えられていたものが変異の連続性により同種であることが分かる場合もある。このように、日本の植物相もまだ完全には明らかにされたとは言い難い。
また、それまでの植物分類学の研究は、日本及びその周辺地域を中心に進められてきたが、世界的視野に立ち、地球規模で植物の進化や多様性をとらえようとする気運が高まってきた。特に日本の植物相の起源を明らかにするため、中国・ヒマラヤ地域の植物相の研究が進展する。原 寛、金井弘夫(1930−)、大橋広好(1936−)、大場秀章(1943−)らにより、中国・ヒマラヤ地域の植物が精力的に収集され、多くの分類群で分類学的研究が進められた。山崎敬(1921−2007)は、ゴマノハグサ科植物の分類学的研究を進めた。さらに、世界の交通機関の発達にともなって、研究材料を求め、世界各地に採集に出向くことが可能となった。岩槻邦男(1934−)、加藤雅啓(1946−)、邑田 仁(1952−)らはタイ、インドネシア、マレーシア、ミャンマーなど東南アジアに、大場秀章らはサウジアラビアやサハラ砂漠へと採集に出かけている。
今回の展示では、東京大学植物標本室が収蔵する標本から、現在のスタイルのおし葉標本が確立される以前のアルバム形式時代を含めて、東京大学植物標本室の全貌を垣間見ることができるように、多様な収蔵標本を展示する。具体的には、「明治以前」、「明治期」、「大正〜昭和初期」、「昭和(戦後)〜現在」に区分し、それぞれの時代ごとに、本学の研究者だけでなく、全国の植物採集家によって採集された標本も合わせて展示したい。また、研究の進展にともなって、国外各地の植物相調査によって収集した標本、交換や寄贈などにより入手した標本も展示して、研究の広がりへの理解が得られるようにする。先人たちが苦労しながら集めた標本は、時を越え、場所を越えて、自然のありさまを証言していることを示したい。
図1 サラシナショウマ Cimicifuga simplex (DC.) Wormsk. ex Turcz.
キンポウゲ科の薬用植物。本草学者であった伊藤圭介(1803ー1901)の所有していた標本。伊藤は東京大学設立当時、員外教授として植物園で植物の調査に従事した。ラベルは和紙で、墨で和名と学名、科名が書かれ、「伊圭」の印が捺されている。産地は栃木県日光の二荒山。伊藤はシーボルトから教えを受け、シーボルトが帰国する際に贈られたツュンベルクの『Flora Japonica』をもとに学名と和名の対照表を作成し、リンネの分類学大系を初めて日本に紹介した。 |
図2 ムジナモ Aldrovanda vesiculosa L.
モウセンゴケ科の食虫植物で、浮遊する水生植物。牧野富太郎が明治23年(1890年)に日本で初めて発見した。ラベルは牧野自身の手によるもので、産地の「武蔵国小岩村」は現在の東京都江戸川区。野生のものは絶滅した。 |
図3 キジムシロ属の一種 Potentilla eriocarpa Wall. ex Lehm.
ヒマラヤ高山帯に分布するバラ科の多年生草本。断崖絶壁の岩の間からぶら下がるように生える。1991年8月の大場秀章らの調査により、東ネパール・ジャルジャレヒマールで採集された。同定は池田 博による。 |