谷川 愛 (本館特任助教/博物資源学・日本史学)
日本とフランスの正式な外交は、安政5(1858)年9月3日、フランス皇帝ナポレオン三世(1808-1873)の命を承けたジャン=バティスト=ルイ・グロ男爵(1793-1870)と徳川幕府により、日仏修好通商条約22ヶ条と貿易章程7則が調印されたことに始まる。同年6月19日の日米修好通商条約を筆頭に、7月10日オランダ、翌11日ロシア、18日イギリスとの修好通商条約等に続く調印であった。
しかしながら、日本とフランスとの交流の契機は、50年も遡ることができる。文化5(1808)年2月6日、オランダ大通詞石橋助左衛門、中山作十郎、大通詞見習本木庄左衛門、小通詞今村金兵衛、小通詞並楢林彦四郎および馬田源十郎が幕府よりオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフ(1777-1835)についてフランス語の稽古を命じられた。翌年、幕府は彼らにロシア語と英語の学習を命じたため、フランス語の勉学は一時中断せざるを得なくなるが、文化11年には本木、楢林、吉雄権之助がドゥーフの許でフランス語の学習を再開している。
当時はロシア船の打払令が出たり、イギリス船軍艦が長崎に入港するなど、外国船への危機感が強まり、相模浦賀、上総、安房沿岸などへ砲台構築を命じていた時期であった。それとともに、外国人との折衝が求められ、外国語学の学習の要が認識されるようになってきた時代でもあった。一方で近代的技術や学問への関心が高まり、学者たちはオランダを通じて西洋の知識や技術を会得しようと希求していた。本稿では展覧会に出品される各種コレクションおよび資料を紹介しながら、日本とフランスの学術交流の一端を追ってみたい。
仏語学習
同じ頃、幕府は江戸九段坂下に、洋書の翻訳と語学教育の機関である蕃書調所を開設する(安政3年2月11日洋学所を蕃書調所と改称、安政4年正月18日開設、安政7年神田小川町に移転)。当初は蘭学や蘭書の収集が中心であったが、安政5年のアメリカをはじめとする修好通商条約締結により、次第に英語・フランス語・ドイツ語の教育も始められた。そのような状況下、安政5年3月29日、村上英俊が蕃書調所翻訳掛に就任する。翌年3月27日にはフランス語科が設置され、村上は教授手伝に任命される。村上は在任中、安政4年に著した『仏蘭西詞林(仏蘭西字典)』を調所のために増補し、約五千葉の辞書に仕上げている。文久元(1861)年5月30日には、林正十郎と小林鼎輔が蕃書調所フランス学科教授手伝、同年入江文郎が教授となるなどフランス語教育が本格化した。
同年9月、蕃書調所に物産局をおき、天文学、地理学、窮理学(物理学)、数学、物産学、精楝学(のちの化学)、器械学、画学、活字の九学科が設置される。同月、伊藤圭介が蕃書所物産学出役を命ぜられている。伊藤は本草家であり、日本近代植物学の祖といわれる。のちに日本産植物に大いなる関心を寄せた横須賀造船所付海軍軍医リュドヴィク・ポール・アメデ・サヴァティエ(1830-1891)と交流をもった。本展では伊藤圭介とサヴァティエとの交流を示す植物標本(図2)や、サヴァティエが横須賀で識した序文をもつ伊藤圭介著『日本植物図説』草部初編(理学系研究科附属植物園蔵、図3)などが展示される。
その後、蕃書調所は文久2年6月15日、神田一ツ橋門外四番原に移り、洋書調所と改称する。文久3年8月29日には開成所、明治2(1869)年12月17日、学制改革により大学南校、明治4年7月18日、文部省設置により南校、明治5年8月の学制で第一大学区第一番中学と次々に改称される。明治6年4月には、第一大学区第一番中学を専門学校に改組し、開成学校と改称、明治7年5月7日に東京開成学校と改称され、明治10年4月12日、東京開成学校と東京医学校とが合併され東京大学となり、法理文医の四学部が置かれた。本展で展示されるこれら蕃書調所や開成学校で使用された教本類(図4)は、日本近代学問の黎明期に西洋の情報や技術を研究した成果である。蘭学者が短期間のうちにフランス語を習得し、日本語へ翻訳したことにより、学問は次の段階へ急速に進んでいくことが可能となったのである。
フランス人による仏語教育
フランス人による本格的な仏語教育は、元治2(1865)年3月6日幕府が横浜弁天町に創立した横浜仏語伝習所の開校による。幕府はフランス軍人の指導による洋式軍隊創出のため、まずその前提としてフランス語を解する士官候補生を養成すべく、開成所のコースとは別個に設立された。設立には栗本鋤雲(1822-1897)と小栗忠順(1827-1868)が関わり、設立後の実務は外国奉行川勝広道(1830-1888)が所長、塩田三郎(1843-1889)が補佐となり、歩兵頭並森川荘次郎(生没年未詳)が連絡役を努めた。塩田は文久3(1863)年の横浜鎖港談判使節団や慶応元(1865)年の柴田剛中の遣欧使節団にも通弁としてフランスへ行った経験もあり、助教のみならず通弁官として任に当たる最適任者としてフランス側から指名されている。
フランス側の責任者は全権公使レオン・ロッシュ(1809-1900)であった。教育はレオン・ロッシュの秘書兼通訳であり、事実上の校長となったメルメ=カションが修学課程の編成とフランス語の講義を行った。伝習生の募集は、慶応2(1866)年11月18日に旗本を対象として行われ、翌3年正月3日には諸藩士にも就学を許可している。第一期伝習生には高級幕臣の子息など約30人が選ばれた。間もなく生徒の数は倍増したため、メルメ=カションは一人ですべての講義をこなせなくなり、慶応2年初頭より、シャルル・ビュラン(1837-1871)、公使館付通訳アンリ・ヴーヴをはじめ、公使館員レオン・ブラン、フェルナン・プーセ、ルイ・サミー、リュシアン・サラベル、ルネリュ、プリーが教鞭を執ることになった。横浜仏語伝習所の卒業生には小栗又一(忠順養子)、栗本貞次郎(鋤雲養子)、川路太郎、長田_太郎、保科俊太郎、田島金太郎応親、山内文次郎(図5)、伊東栄、鳥居八十五郎、中島才吉などがいる。
本展では、横浜仏語伝習所の教師シャルル・ビュランの遺族であるジョルジュ・ド・リュスネー氏の許に遺された資料が初公開される。シャルル・ビュランは元治元(1864)年夏頃に来日し、騎兵隊から出向の身分で、フランス公使館の護衛に就いた。レオン・ロッシュ公使付の護衛隊長であったという。横浜仏語伝習所教師ののち、明治2(1869)年に太田村兵学校教授方首長、翌3年には大坂兵学寮教師となっている。契約の数ヶ月後、普仏戦争が始まったことにより、ビュランは特別休暇願を出し、同年閏10月5日に横浜を出港し、帰国の途につく。この際、教え子のうち、10人を官費留学生、3人を藩費留学生としてフランスに連れていって欲しいという兵部省からの依頼により、13人の日本人留学生を伴っていった(図6)。しかしながら、シャルル・ビュランは帰国後間もない1871年4月11日、34歳の若さで急死する。
リュスネー氏が所蔵するシャルル・ビュラン関連の史料には、契約書のほか書簡類が多く含まれる。日本滞在中のものを中心として、来日以前および帰国後のものが若干含まれている。日本滞在中の資料としては、横浜仏伝習所教師時代の同僚や日本人生徒からの来簡と両親宛の自筆書簡、太田村兵学校と大坂兵学寮に係る契約書、榎本武揚とともに箱館に向かった友人からの来簡がある。帰国後はフランスにおける駐仏公使鮫島尚信など日本人との交流や、急死後の日本人生徒の境遇について父アンリ・ビュランが妻宛に認めた書簡などがある。
横浜仏語伝習所の同僚であるフェルナン・プーセからの書簡は伝習所の日常生活などについて記されている。また、森川荘次郎からの仏語書簡は俸給や新入生徒のことなど実務的な内容であり、歴史上全くと言って過言でないほど明らかになっていなかった伝習所の様子がわかる貴重な史料である。他方、友人からの書簡のなかに、第一次軍事顧問団の団員で箱館戦争に参加したフランソワ・ブッフィエ、アルチュール・フォルタンが宮古と箱館から、横浜にいるビュランに宛てて戦況を報告している書簡がある。彼らが箱館戦争に参加したことは有名な事実であるが、これらの書簡は殆ど明らかになっていない彼らの行動を知る一助となろう(図7)。シャルル・ビュランは騎兵隊員であり、軍事顧問団への加入を希望していたが、実現はしなかった。しかし、それ故に軍事顧問団の帰国後もフランス語教師として日本に留まることができ、ブッフィエらからの手紙が送られたのである。
フランス遣日軍事顧問団
シャノワーヌは慶応2(1866)年12月8日に横浜へ到着するとすぐ、太田陣屋において砲兵・騎兵・歩兵の三兵の軍事教練を行っている。一方、慶応3年3月末には大坂に赴き、3月27日と28日の二日間、全権公使レオン・ロッシュとともに将軍慶喜に謁見している。本国の陸軍大臣ニール元帥に対し、松平乗謨が実施した工事に対する意見や幕府陸軍の大規模な改革の必要性などについて述べたと報告している。その直後の慶応3年4月7日付けで慶喜の花押のある書状がある(図8)。内容はシャノワーヌの建白に対する回答として、江戸において担当者の陸軍総裁松平乗謨から承ること、必要経費は勘定奉行より支給されることが記されている。シャノワーヌが建白した具体的な内容は明確ではないが、慶喜との謁見のなかで提言したことに関連していることは想像に難くない。
その後、幕府陸軍は大幅な組織改革を行い、9月には顧問団が江戸に移り、教練を受ける兵員数も増加している。教練の成果に幕府も満足し、慶応3年9月23日には、陸軍奉行の石川総管と浅野氏祐の連名で、シャノワーヌに宛てて感謝状を送っている。しかしながら、翌10月の大政奉還により軍事顧問団の継続は不可能となり、慶応4年9月3日、シャノワーヌらは帰国した。
大政奉還により時代は変ったが、明治新政府もまた陸軍の近代化は、やはりフランスに依頼した。シャルル・アントワーヌ・マルクリー中佐(1824-1894)を団長とする第二次軍事顧問団は、明治5(1872)年4月11日横浜に到着した。途中、明治7(1874)年に団長はシャルル・ミュニエ(生没年未詳)となり、明治8年と10年に契約更新が行われ、明治13年まで約9年にわたって継続した。南フランスのサロン・ド・プロヴァンスのアンペリ博物館からは、オーギュスタン・マリー・レオン・デシャルム(1834-1916)のコレクションを提供していただく。
デシャルムは第一次および第二次軍事顧問団員として来日している。前者では皇后陛下付竜騎兵連隊中尉として、後者では第二次第四アフリカ猟騎兵連隊大尉として、何れも騎兵科を担当した。第一次の際には、教練のほかに、将軍徳川慶喜のためにアラブ馬三頭を調教している。第二次顧問団は、現在国立劇場隣の憲政記念館のある場所に本拠を構えた。掃部屋敷と呼ばれていたようであるが、デシャルムコレクションにはその屋敷の写真が数点ある。明治6年に撮影されたものであり、台紙には各部屋の入居者が記載されているため、様子がよくわかる。また第二次軍事顧問団員の写真があり、台紙には名前の記載を伴っている(図9)。デシャルムは明治9年2月15日に日本を去るが、その直前に撮影された後任のセラッセル中尉の写真などもある。そのほか、楠木正成が息子正行と桜井で別れる場面を描いた青野桑州の石版画「楠公桜井駅訣子図」や、髪結店でのやりとりを描いた戯画なども含まれている。
以上、主なコレクションを紹介してきたが、このほかにも総合研究博物館小石川分館の三宅コレクションから文久3(1863)年の幕府遣欧使節団関係の資料、パリの国立自然史博物館からは慶応3(1867)年パリ万国博覧会で日本が出品した田中芳男採集「昆虫」標本が里帰り展示される。また、クリスティアン・ポラック・コレクションおよび東大コレクションを中心に、殖産興業・産業技術、医学、植物学、法学、文学、建築、写真といった多岐にわたる日仏学術交流の証である各種資料を紹介する。詳細は図録を御覧いただきたい。本展は日仏両国が学術の分野でいかなる交流があったのか検証できるものである。さらに展示物のなかには、幕末維新期に足跡を残したフランス人の許に遺された、日本では見出し得ない史料が多く含まれており、その貴重な公開の機会でもある。日本が近代に向って進んだ時代の「維新とフランス」の学術交流に係る膨大な資料を御堪能いただきたい。
維新とフランス−日仏学術交流の黎明 会 期:2009年3月28日(土)〜5月31日(日)月曜日休館 開館時間:午前10時〜午後5時(ただし入館は4時30分まで) 会 場:東京大学総合研究博物館1階展示室 |