園江 満
(本館研究事業協力者・東京農業大学国際食料情報学部非常勤講師・東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員/農業地理学・タイ研究Tay Studies)
去る3月末から4月にかけて東京大学総合研究博物館では、ラオス人民民主共和国(以下、ラオス。)のヴィエンチャン首都区において、ラオス農林省国立農林研究所(National Agriculture and Forestry Institute: NAFRI)との共催により、本館海外モバイル「ラオス―農の技Laos; The Art of Farming」を開催した(図1、2)。この事業としての概要については、博物館WEBサイトでも一部紹介しているので、そちらを参照いただければ幸いであるが、この展示の際には、3月24日の開会式における主催者挨拶で林良博館長が「展示物を通して感じる企画であり、先入観を与えることを避けるために詳述はしない」とスピーチした(図3)ように、いくつかの理由で資料に関するキャプションはつけておらず、その来歴や使用方法については、観覧者のイマジネーションに任せていたところがある。しかしながら、これまでNAFRIでは農具等の民俗資料を扱ってきた経験がないこともあり、資料がバックヤードに片付けられてしまった現在、改めて展示資料とその蒐集にともなうフィールド調査を紹介するとともに、ラオスとその近隣の伝統的生産工具についても解説してみたい。
「ラオス」という国と「タイ文化圏」について
「ラオスのヴィザ(査証)はどれでしょうか?」少し前まで成田の搭乗手続きカウンターでよく尋ねられた質問である。現在、日本人の短期滞在についてはラオスの査証が免除されているものの、日本から直行便が無いこともあってその認知度は低く、僕のパスポートにべたべた貼られたヴィザや出入国スタンプにLaosの文字は無いため、タイ・バンコクから「旅券査証が要りそう」なラオス・ヴィエンチャンへ乗り継ぐ怪しげな客に、航空会社の地上係員は確認したがる。
実は、ラオス語での国名は「ラーオ」だし、Laosの「s」は、旧宗主国であったフランスが「それらしい綴り」にするために付けたもので、フランス語では発音しない。このため、現在の欧文による正式国名表記の「ラオス」部分は英語・フランス語ともにLaoとなっており、ラオスのヴィザには「人民民主共和国」の略語を付加したRDP LAO(仏)・LAO PDR(英)としか記されていないので、件の疑問が生じるわけである(図4)。
話がはじめから横道に逸れて恐縮だが、インドシナ半島の真ん中南北に細長く陸封され、現在公式には49民族で構成されるこの国を考えるとき、この国名における曖昧さが日本の本州ほどの面積も持たない地域の生態的・文化的多様性を象徴しているというのは、我ながら無理のあるところではある。しかしながら、現在のラオスという国とその周辺は、13世紀頃から興ったタイ系諸侯の「クニ」の連合として緩やかに繋がり、19世紀末に現在の領域の原型を画定したのもフランス・イギリス・シャム・清といった他者の都合でしかなく、山地や水系によって繋がれた人とモノの往来は、今日もなお、そこにあるはずの国境とは無関係に盛んである。
翻って、ここでラオスを含む東南アジア大陸山地部を考える上で「タイ文化圏」の概念を説明しておきたい。現在の国民国家であるタイランド(タイ王国)、ビルマ(ミャンマー)、ヴェトナム、ラオス、インド・アッサム州、中国雲南省にかけての地域は、多言語・多民族であって、ある大伝統に支配されるのではなく、さまざまな文化的要素を持ちながら、有機的に結びついた複合文化交流圏として捉えることが可能であり、このひとつの言語学的・歴史的・文化的背景をもったタイ系民族の分布する空間的広がりを、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(以下、AA研。)の新谷忠彦教授を中心としたグループでは「タイ文化圏Tay Cultural Area」と呼んでいる(図5)。誤解があるといけないので、一言先に申し上げておくと、タイランドThailandのタイは、多くのタイ系民族Tayの一民族であるThai(Siam)の国であって、日本語では区別がつかないものの、タイ系言語Tayでは有気音のThと無気音のTは全く異なる音であり、タイ文化圏として想定される地域概念は、タイランドを中心として論じているものではない。
僕がまだ農学に近い立場で学んでいたとき、「水田帝国主義」と揶揄される学問的潮流があった。東南アジアでも、水田水稲作は焼畑陸稲作に較べて「進歩した」農業技術であるとの観念は根強く、特にタイ系民族が水田農耕民であるとの「定説」は、タイ系民族最古の王朝であるスコータイの繁栄を謳ったとされる碑文以来、一種民族的誇りとして刷り込まれてきた感がある。しかしながら、ラオスにおける稲作を自然・社会の両生態の面から研究を始めて以降、こと「タイ文化圏」における稲作の生態では、民族ごとの対立的な性格の生業の形態として水田耕作と焼畑稲作を捉えるのではなく、多民族間の文化的・技術的交流がタイ系民族の水田稲作技術を育んだのではないかと考えており、今回の展示においても、言外にではあるがその主張を忍ばせてみた。
コレクションの旅
これまでの研究で、ラオスの生産工具には、先述の「タイ文化圏」にみられるようにいくつかの異なった文化的背景とそれらの複合が影響しており、それはかなり明瞭に地理的分布として現れていることが分かっていた。このため本展示では、生産工具の多様性と地域的な違いをテーマの一つとして、動線に従って観覧することで、自然に犂なら犂といった農具の形状的な変異に気付くように陳列を試みることにした訳であるが、さて、実際にモバイル展示を企画する段では、ラオスには生産工具に関する包括的な資料と情報の蓄積が存在しないため、展示の趣旨に沿って、はじめから資料を収集する必要があった。
このため、2009年7月にNAFRIと本展示の大枠について合意すると、雨季明けを待ってラオス全国を回ることにした。幸い、北部では「どこの村へ行けば何がある」という程度具体的なイメージがあったが、中・南部では少々怪しいところもあり、11月から約1ヶ月の日程を組んでみたものの、アクセスの整備がまだ充分とはいえないこの国では、さすがに18ある全県を回ることはできなかった。それでも、その後2回の補足調査もあって北端のポンサーリーから南端のチャムパーサックまで11県で調査と蒐集を行い、大小約200点の資料を得ることができた。11月の調査では、首都区からの位置やルートを考慮して三度に分けてラオス国内を走り回ったが、農林省から借りた調査用のピックアップトラックの日に日にテンコ盛りになってゆく荷台は、駐車のたびに注目を集め、現地の人さえも「これは何に使う道具か?」と首をかしげる様子は、実に愉快な記憶である。
ラオスにおける「農の技」の姿
今回、展示会場として使ったのは、現本部地区のほか農林省所管にあった8部門の研究センターと南・北の地域センターを統合したNAFRI設立の10周年記念事業として建設された本部講堂で、ステージ下からのフロア24m×15mのうち後方の14m部分中央を短辺3m長辺6mのT字形パーテーションで3区画に区切って展示スペースとした(図6)。各セクションは右回りに「稲作と社会」「工芸作物の利用」「人と動物の関わり」のテーマに分けて、キャプションとしてはこれだけを掲示した。以下では、会場デザインと展示品について少し解説したい。また本企画では、現在ラオスで使用されている在来の生産工具のほかに、今年が日本・ラオス外交関係樹立55周年に当たっていることもあり、日本の伝統農業を紹介し、近代における在来技術に関するアーカイブス化の事例として農書の原本と図版パネルも併せて展示した(図7)。
まず、外観であるが、NAFRI本部講堂は門から入ると高い木立を巻いて正面玄関の車寄せになっており(図8)、この玄関ステップに向かって右手には、水車の付いた甘蔗圧搾機(搾糖機)がモニュメント代わりに設置してある(図9)。機械としての詳細は後述するが、これは、北部のルアンパバーン県シァングン郡にあるニュアンというタイ系民族の集落で調査をした際に、今回の収蔵資料として譲り受け、後日首都区の会場まで村から建て込みに来てもらったものだ。ニュアン(ユアン)は、ラオスの前身であるラーンサーン王国建国に先立って13世紀末に現在の北タイにラーンナー・タイ王国を興した民族で、チェンマイ盆地一帯に灌漑システムを巡らせるなど高度な水利技術の持ち主として知られている。
以下に、展示資料を順路に従って解説しよう。
1.稲作と社会
講堂内は、正面玄関右手から展示スペースになっている。最初のセクションは資料点数からも展示スペースの大半を占めており、「稲作と社会」と題して中央に24本の犂をラオス北部から南部へと直線的に配置し、形状が変化していることを連続的に見られるよう陳列した(図10)。犂に関する詳細については、紙幅の都合ここでは割愛させてもらい拙著をご参照いただければ幸いであるが、大まかに言えば、ラオスの犂では水牛などの牽畜に長く伸びた轅を直接固定するインド系軛犂は見られず、中国犂の特徴である牽畜と犂体を引綱で繋ぐ搖動型しか確認されていない(図11)。形状の面からは、北部で中国・雲南において典型的な枠型犂のみが使用されているのに対し、中部以南ではインド系の影響を強く受けたマレー犂を髣髴とさせるY字構造が支配的であり、その中間地域では折衷型とも言えるX字枠型構造を持つ犂が見られる。
また、犂とともに水田で用いられる耕具として耙があり、これも犂の列と平行に北部‐南部と対応するように配置した。ラオスの耙には而字型(図10参照)のものと橇型(図12)の2系統が存在しており、而字型耙が全国に亘って広く分布しているのに対して、橇型耙は北端地域でしか見られず、中国からこの地域にかけて、この形状の耙を使用する南限となっている。一方で、而字型耙の北限は、中国の雲南中部であると考えられ、犂と二種類の耙を用いた犂‐耙(橇型耙)‐(而字型耙)というタイ文化圏に特徴的な耕起体系を構成している。而字型耙は日本でも使用されていたが(図13)、ラオスにおいては、北部に較べて中南部のものはかなり大型である(図14)。
北部における耕起体系のバリエーションとしては、而字型耙の歯に竹製の均平棒を装着し、主に苗代用の平耙として使用することが多いが(図16)、これも中部以南では見られず、ラオスにおける水田耕作技術の地域性を示すものの一つとなっている。
上記の水田で使用される耕具に対して、焼畑では基本的に耕起せず、掘棒を使って播種を行う(図17)。今回の展示のための調査では、これまで広く知られている非タイ系民族の堀棒(図18)と北部のタイ系民族であるルーが使用する比較的長い堀棒(図19)のほかに、中部のボリカムサイ県とヴェトナムの国境となっているルアン山脈の山地に住むタイ系民族の間では、短い箆状の堀棒(図20)が一般的に使用されていることが確認され、現在この道具と技術に関する分析を行っている。この短柄堀棒については、その後の調査でボリカムサイ県から中部山地に国境が大きく西へ張り出した地域を越えて北側にあたる東北地域のファパン県におけるタイ系民族の間でも使われており、村人からの聞取りでも、この地域の民族移動と農耕技術の伝播・継承にかかわる重要な痕跡であることが分かってきた。これは、後述する穂摘具を使用する収穫方法と併せて、「タイ系民族は水田農耕民である」というこれまでの認識に対して再検証を行っているタイ文化圏研究にとって心強い材料の一つとなった。
焼畑地における農作業において、時間的・労力的に最も高い比重を占めるのは、除草作業である。中国西南部からラオス北部一帯のタイ文化圏にはじまり、インドシナ半島の脊梁山脈に沿った地域では、この除草作業だけに特化した農具が存在する(図21)。日本でも沖縄から鹿児島にかけて使用されているテグワやトゲベラと同系統と考えられるこの農具は、雲南では小鋤頭あるいは歪刀と呼ばれ、タイ系を含む諸民族の必需品であり、ラオス北部でも民族にかかわらず広く使用されている。多くの場合モン・クメール系のクム語を起源とするヴェークと呼ばれているが、その使用は、焼畑地の除草作業に限定され、水田での除草作業には全くといいほど使われない。また、タイ文化圏を外れたラオス中・南部では、もっぱらインドシナ半島に先住していたモン・クメール系民族のみが使用するという点で、この地域に水田稲作がもたらされる以前の文化的基層を示すものとして貴重な資料であるといえる。
ラオスでは、稲の収穫方法として@鎌による株刈りA素手による扱き取りB穂摘具による穂首刈りの三つが行われている。鎌の形状とサイズについては、東南アジア大陸部全体で見るとかなりのバリエーションがあるのに対して、ラオスの鎌は、刀身を柄に差込む「挿入式」と、筒状にした刀身に柄を差込む「被せ式」の違い(図22、23)はあっても、ともに中国系と考えられる比較的均質なものが殆どである。一方で株刈り以外の収穫方法は、ラオスの稲作を極めて鮮明に特徴付けているが、先ほどの堀棒同様に展示準備調査から明らかになってきた点も多々あって、断定的なことはいえないものの、タイ系民族の間でも穂摘具による穂首刈りは、想像以上に一般的であると推定する材料が整いつつある。
既に紹介したように、この地域にはもともとモン・クメール系の民族が住んでおり、現在でも彼らの多くは、焼畑で陸稲耕作を行い、素手による扱き取りで籾を収穫している(図24)。この技術は、ラオスの陸稲収穫では最も一般的な方法であるが、他の地域における研究の成果からも穂摘具が使用される以前の古い技術と考えられる。これに対してヘープと呼ばれる穂摘具の使用は、ルーやニュアンなどの北部に住むタイ系民族では確認されなかったが、展示準備の際に集中的な調査を行った中部のテーン、ボーや東北地域の白タイといったタイ系民族の間では広くみられ(図25)、鎌による株刈りから変化したとは考えにくいことから、タイ系民族本来の収穫技術が穂摘具によるものであった可能性が否定できないといえる。また、これ以外にも穂摘具による収穫はフモン(モン)やランテン(藍瑶)といったミャオ・ヤオ系民族(図26、27)や南部のモン・クメール系民族の間でもみられるが、一部の報告にある北部に住むモン・クメール系のクムでは、聞き取りによってもその使用は確認できなかった。
収穫の済んだイネは多くの場合、穀倉に貯蔵される前に乾燥・脱穀される。ただし、陸稲の場合は、扱き取りや穂首刈りされることが殆どであり(図28)、飯米として精搗(精米)と同時に脱穀・脱籾を一連に行う。脱穀作業の際一般的なのは、西南日本で「マッボ」と呼ばれている二本の棒を紐などで繋いだ稲巻棒(図6参照)による打付け脱穀であるが、北部の地域では、同様にタタキ台と呼ばれる脚付きの打穀台や打穀槽を使用するのに対し、中・南部では脱穀上の地面やそこに置いた板に稲束を叩きつけることが多い(図29)。また、その後も打穀棍や2本組みの打穀棒(図30)によって「打付け」では脱粒しなかった籾を再度払い落とした後、大型の穀扇で藁屑やしいな等を扇ぎ飛ばして風選を行い、一年の糧を得るための作業は終わりを迎えるのである。
2.工芸作物の利用
今日ではラオスの農村といえども、工芸作物の生産は世界市場に連結した換金作物としての要素がより強くなり、これにまつわる伝統的な生産工具は急速に姿を消しつつある。その中で、本展示において着目したのが砂糖と綿に関わる道具と技術である。
東南アジアでは、サトウキビから作られる砂糖のほかに、サトウヤシ(オウギヤシBorassus flabellifer L.)から作られるヤシ糖があり、現代タイランド語で一般に砂糖を示しているナム・ターンはマレー語を起源とし、本来ヤシ糖のことを指している。一方で、サトウヤシの生育が難しい東南アジア大陸部山地では、サトウキビの搾汁を煮詰めたナム・オーイが一般的であるが、花軸を切るだけで糖液を得られるサトウヤシと異なり、砂糖生産には硬いサトウキビの茎を圧搾して糖液(蔗漿)を採取しなければならない。
この際使用されるのが、歯車つきのローラーをもった甘蔗圧搾機(搾糖機)であり、大掛かりな装置である分、この分布と形状の違いは、地域における物質文化の来歴を示す大きな一つの手掛りであると考えられる。言葉を変えるならば、伝統的技術によってサトウヤシから砂糖生産が行えるのであれば、わざわざ手の込んだ仕掛けを持った甘蔗圧搾機を作るには至らないと考えられるので、この有無が「インド・マレー文化圏」の北限地とも推定できる。
甘蔗圧搾機が示すものは、砂糖の原料生産における自然生態という環境要因のほかにも、犂同様の大きな文明の系譜の影響とタイ文化圏における創意がある。それは、この機械を構成する要素であるローラー・動力伝達法・駆動法の組合せによって表現され、そのうち特に動力伝達システムである歯車(ギア)は、この地域の文化的多様性と交流を雄弁に物語っていると言ってよい。
さきに見たように、会場の正面玄関で人目を引くこの機械は(図9参照)、3メートル近い高さになっているが、実際に道具として繰返し使用されるのは、歯車の付いたローラーと軸受け部分であり、中でも歯車は機械全体の心臓部といえる。これまでの研究からタイ文化圏における伝統的な歯車には三つの系統があることが分かっており、甘蔗圧搾機の研究に端緒を開いた「タイ文化圏」研究のパイオニアの一人であるAA研のクリスチャン・ダニエルス教授は、主に雲南・西双版納における調査結果から、@二段木栓A平行ウォーム(螺旋状)B山形に系統を分類し、その起源について、それぞれ二段木栓を中国の漢族、平行ウォームをインドに求められるとし、山形歯車はタイ系民族独自のものである可能性を説いている(図31、図32)。
ラオスの中部以北では、これら3系統の全ての歯車を持った甘蔗圧搾機がみられるが、山形歯車が最も多く上述の可能性を強く支持しており、「モニュメント」として山形歯車を持った甘蔗圧搾機を据えたのには、このような背景がある。また、駆動法については水牛などの畜力・人力・水力があるが、この地域におけるタイの人々が山間の流水を巧みに利用する民族である(図33)ことから、水力駆動というのも展示の寓意として相応しいと思われた。(図34)
歯車を考える上で大変興味深い比較の対象が、綿轆轤である。これも本展示のキー・アイテムとしてポスター等のパブリシティーに多用した(図1参照)。
この道具は、手廻ハンドル基部のウォーム(螺旋状)歯車で回転するローラーを用いて実綿から種子(足元に落ちる。)と綿毛(手前の籠に落ちる。)を分けて原綿にするもので、インドを起源として世界中でほぼ均質な形状をしている(図35)。甘蔗圧搾機では歯車に3系統があり、そのうちの一つはタイ文化圏を起源地としている可能性に反して、綿轆轤の歯車ではウォームしか採用されておらず、その後の糸繰り作業を行う紡車(図36、37)も極めて普遍的な構造と形状をしていることは、この地域における両者を含んだ農村工業の技術受容もまた、単一的でなかったことを示している。
3.人と動物の関わり
最後のセクションでは、「人と動物の関わり」について触れた。
僕の研究テーマの中心の一つである犂という道具は、耕具(犂)・犂手(人)・牽畜(水牛など)とこれらを結合させる連結用具によってその機能を全うする(図11参照)ものであり、このセクションでは主にこの犂耕を構成する連結用具を扱った。
はじめの方で触れたように、インドを代表する軛犂は牽畜と轅を直接固定するもので、牽畜と犂体を引綱で繋ぐ搖動型の中国犂とは対照的である。東南アジア大陸部でも、カンボジアやタイランドには軛犂があるが、この構造は犂手である人間と牽畜である牛や水牛の関係については、人間が家畜を強固に支配していることの表われであり、一方、搖動犂は必要以上に拘束しないという関係性として説明される。
ラオスの周辺でもタイランドの中央平原、カンボジア全域、ヴェトナム南部ではインド型軛犂の系譜を持った犂が見られる反面、ビルマ・シャン州やヴェトナム北部などを含むタイ文化圏においては、犂体と牽畜は頸木・胸当と轅の間を引綱(曳緒)によって繋がれる搖動型の犂が圧倒しており、その操作にももっぱら手綱が用いられ、鞭の使用は確認されていない(図38)。
また、今日ではほとんど見られなくなったが、かつてタイ系民族の間では牛を荷駄や輓畜として使役することが一般的であり、馬は役畜としてほとんど飼育されてこなかった(図39)。現在でも、ポンサーリー県などに住む漢系民族のホーは、馬を利用して山地を往来しているが、この地域に住むタイ系のルーでは全くといっていいほど見られない。
このほか今回の展示事業以前にも、当館ではNAFRIとの交流協定に基づいて2007年以来共同研究プロジェクト「ラオスにおける総合的野鶏研究」を実施しており、海外モバイルに先立ち遠藤秀紀教授が中心となって4回の現地調査を行い、セキショクヤケイに関する自然科学・社会科学両面からの研究を行っている。
セキショクヤケイは家禽として人類と約8000年を共にしている鶏の先祖であり、現在でも多くの民族がさまざまな形で一般の野生の鳥とは異なった関係を維持している。このため、セキショクヤケイは生態資源としての野生動物が家畜(家禽)として馴化される過程を生物学的な面からだけでなく、文化遺産として社会・文化的側面から探る上でも魅力的な研究対象である。ラオスにおいても野生動物の捕獲と移動は基本的に禁止されており、このプロジェクトでは農林省からの捕獲許可と輸出許可(動物検疫を含む)を受けてラオス各地で野鶏個体を入手し、剥製とDNA標本などを作製しているが、今回はこのうちセキショクヤケイの剥製標本のほか、囮を使った狩猟など関連する写真を展示した(図40〜43)。
文化的多様性と生態的多様性
ラオスでは、21世紀に入った現在でも地域ごとの生態的・文化的多様性を維持しており、北部の「タイ文化圏」に属する地域と、中部以南のメコン河岸地域では、農に代表される人々の「技」と暮らしぶりにも明瞭な違いがある。本展示企画のひとつの意図は、ラオスの生態的多様性に支えられた文化的多様性に富む伝統的生産技術の蓄積を、目に見える形で示すことで、それが当然のことだと考えている現地の人たちにも、改めて再発見してもらうことであったが、展示の中であえて「タイ文化圏」の概念を示すことはしなかったものの、資料それぞれが見せる彼我の姿は、自ずと地域の文化を語ってくれたものと思う。
ラオスにおける生産工具の調査では、この地域における伝統的生産技術とそれに伴う物質文化が民族間のバリエーションとしてだけでなく、同じ民族内でも、山地と低地あるいは北部と南部という異なった生態環境に基づく違いとして、今日でも活き活きとした記録すべき貴重な民俗資料として存在していることが明らかとなり、また野鶏の調査では、豊富な生態資源とひとびとが多様な価値観のもとに共存している姿の一例をわたくしたちに示してくれていると言えよう。
決して裕福でない農村における日々の生活にあっても、ラオスの人たちは研究者のインタビューに時間を割いて在来知を余すところなく披露してくれ、また、近隣の諸国では既に難しくなってきた生態資源に関する調査さえも寛容に受け入れてくれることは、これらの多様性に支えられた社会のなせる業というのは言い過ぎだろうか。
ラオスのみならず、現代社会においては「ゼニ」にならない研究はなかなか評価され難いという現実があるなかで、記録されないうちに消失し、その消失自体が気付かれない在来知にどのような価値を見出すのかは些か答えに窮するところもある。しかしながら、今回の海外モバイルでは、ラオスに各地おいて小規模ながらも民俗資料の蒐集を行い、それを紹介し、記録・保存の意義を訴える機会としてはそれなりの役割を果たせたのではないかと思うし、新たに分かってきたことと、今後調べるべきことがまだ残されているという認識を深める上でも成果は決して小さくなかったといえる。
とりあえずは、蒐集した資料の詳細目録を作成することを目標に、この先もラオスの農村を歩き続けることとする。
謝辞 モバイル展示に係る現地調査では、名古屋大学大学院国際開発研究科の加藤高志准教授に数々の御協力を得た。記して感謝の意を表する。またNAFRIのほか、現地調査から展示準備まで多大な便宜図ってくれたラオス文化振興財団(ヴィラチット・ピラーパンデート理事長)と各地でお世話になった方々に対して、この機会に改めてお礼申し上げる。