堀内秀樹
(埋蔵文化財調査室/准教授)
本展「弥生誌 向岡記碑をめぐって」は、2000年に行った東京大学コレクション]「加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡」以来となる学内発掘調査関連の展示である。
東京大学本郷キャンパスや駒場キャンパスなどは、旧石器時代から近代にかけての良好な遺跡の上に立地しており、特に本郷キャンパスは、弥生時代の名称の契機となった土器発見地関連の遺跡として有名な「弥生二丁目遺跡」や加賀藩・水戸藩をはじめとする江戸時代の大名屋敷関連の遺跡など周知の遺跡が存在する。東京大学では学内校舎新設や改築など開発に伴う発掘調査を行っている。埋蔵文化財調査室はこうした調査、研究を担当する組織として1983年に設立され、以来、膨大な量の過去の歴史情報が蓄積されている。
地下に眠る遺跡から情報(遺跡、遺構、遺物の出土資料)を抽出する方法が発掘調査であり、良好な情報を得るためには精緻な調査は不可欠である。そしてピックアップされた情報に対して評価を行うことが研究であり、この発信は大学調査機関として望まれるファクタと言える。また調査を行った遺跡を学術報告書として刊行し、情報(資料)や評価の共有化・周知化を図っている。これは重要なことで、開発などによって無くなってしまう遺跡や遺構などは図面や写真による記録保存、出土遺物は「埋蔵文化財」として保存が基本である。これまで考古学の中心であった文字などが無い(少ない)時代や地域はもとより歴史時代においても物質的資料の持つ情報の重要性は大きい。これら情報の「共有化・周知化」は、保存・活用・公開などとも言い換えることができるが、こうしたことはその評価抜きで語ることはできない。今回の特別展示「弥生誌 向岡記碑をめぐって」は、時代の由来になった場「弥生」の歴史的展開を情報の抽出(考古学的発掘調査)、学問的評価(考古学や関連諸分野との連携研究)、それの周知化・周知化(保存、公開、活用)を一貫した視座で構成したものである。
現在、「弥生」の町名を付される地域の大部分は、東京大学農学部がある弥生地区と工学部実験施設や情報基盤センターなどがある浅野地区が該当する。これらの地区は本郷台地東縁部にあたり、先史時代から遺跡が経営され、また江戸時代には水戸藩駒込邸として利用された。こうした特定の地域の歴史的プロセスの復元は、考古学的調査・研究がその有効性を呈示できる分野である。考古学と「弥生」との関係は、明治17年に坪井正五郎、白井光太郎、有坂蔵らが本郷弥生町の向ヶ岡で発見した土器にはじまる。それ以降の弥生文化の研究とその成果は時代の呼称として「弥生」の名を知らない人がないまでにした。しかし、「弥生」の名は江戸時代この地が屋敷として拝領していた水戸徳川家の当主であった齊昭が文政11(1828)年に書いた碑文向岡記碑(口絵参照)にちなんでいる。
弥生地区と浅野地区の発掘調査は、1984年に行った農学部共同溝地点(NK84)を皮切りに現在まで20地点を超えている。弥生地区は水戸藩駒込邸西側の家臣の居住した空間であったことが推定される。家畜病院地点(1990年調査)、教育学部総合研究棟地点(1993年)、IML地点(1996年)、農学部図書館地点(1993年)、農学部7号館地点(1992・93年)、生命科学総合研究棟地点(2001年)、分生研・農学部総合研究棟地点(2009年)からは水戸藩駒込邸に伴う遺構・遺物が出土しているが、近代に行われた整地により江戸時代の生活面とそれに伴う遺構の多くが削平された。したがって遺構は深く掘られた井戸、地下室、切り通しの溝などが中心に確認されている。遺物は、江戸時代を通して出土しているものの、17世紀後半の陶磁器類は特記される。肥前磁器(伊万里焼)の上質の大皿、「仁清」の刻印の水指(図1)などが出土しており、これらは上級階層の使用が想定される。当時、徳川光圀が駒込邸に史館を設けて行った『大日本史』の編纂事業とそれに携わる朱舜水ら学者たちが住居していた。これら水戸藩駒込邸に関しては、発掘成果と文献史料や絵図史料などを合わせた調査・研究により、藩邸の機能や状況が明らかになりつつある。
浅野地区は、情報基盤センター変電室地点(1995年調査)、工学部風工学実験室支障ケーブル地点(1995年)、工学部風工学実験室地点(1996年)、工学部風環境シミュレーション風洞実験室地点(1998年)、工学部武田先端知ビル地点(2001年)からは水戸藩駒込邸に伴う遺構・遺物のほかに弥生時代の方形周溝墓(図2)と弥生式土器(図3)が出土した。
本展では弥生・浅野地区の調査・研究成果の一部を公開したが、本郷キャンパスのみならず、東京大学にはまだ多くのこうした歴史文化資源が蓄えられている。本展を通して学内埋蔵文化財の重要性に対して理解いただける一助となることを期したい。