山田昭順
旅のはじまり
「化石を撮影してみませんか」と、東京大学総合研究博物館の佐々木猛智さんから打診があったのは2011年の夏のことだった。その頃私は「生きる形展」(於:東京大学総合研究博物館、2012年4月20日〜9月1日開催)の撮影や、展覧会図録に掲載するエッセイ執筆の真っ最中。日々、哺乳類の進化の不思議について思いをめぐらせ、頭の中は飽和状態。私は深く考えずに「是非やらせて下さい」と反射的に答えていた。それは、以前から岩石(鉱物)や化石の美しさに深く魅了されていたからだ。「今は展示の準備で手一杯なので、そちらが一段落したら…」との言い訳めいた言葉を添えて。
2012年2月上旬に「生きる形展」の準備はほぼ終了した。数千万年に及ぶ旅を終えた私は、ある種の充足感と、心地良い疲労感を楽しんでいた。「思えば長い旅だった。いろんな物を見て、そして感じて来た。私が何者であるかようやく分かったようだ。今私は生きている。ただそれだけで満足だ!」などと本気で考えていた。今思うとなんと小さくかわいらしい満足感。
その後「化石」と共に、想像を超越した遥かなる「時の旅」に出かける事になるとは、その頃の私は想像すらしていなかった。
化石の気持
写真とは不思議なものだと私は思う。写真撮影はとても簡単であり、またとても難しい。シャッターボタンを押せば何かが写ってしまう。そのようにして撮影された写真は「単なる写真」の域を出ない。何かを語り出すような強さをもった作品を撮るためには、撮影対象を深く理解し愛さなければならない。化石の撮影を前にして私は悩んでいた(いや、恐怖していたのかもしれない…)「私は化石の何を知っているのか?」と。化石というもの存在を頭では理解しているつもりでも、「化石の気持」を心と体で感じることがどうしても出来ない。それは仕方がないことかもしれない化石と触れあっていないのだから…。
2012年2月21日、撮影初日。この日、私が佐々木さんに発した第一声は「化石の気持が良く分からないので作品が出来るかどうか不安なんです」と言うものだった。いきなりそんな事を言われて佐々木さんも驚いたことだろう。「本当に撮れるのだろうか?」と思ったかもしれない(全ての撮影が終了した後に聞いたことだが、本当にそのように思っていたらしい…)。
佐々木さんは動揺する事もなく、私を諭すように静かに「化石」について語り出した。化石が研究されたのは、主に地下資源開発のためだったこと。開国後の明治政府は日本の教育レベルを西洋の諸国並に引き上げるために非常に熱心で、東京大学にある化石のコレクションで最も古いグループの「クランツ標本」(写真1)は、ドイツのボンにあるクランツ博士の標本店から明治政府が莫大な資金を使い購入したということ。海外から多くの有能な研究者を招聘し、ナウマンゾウで有名な地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマン博士もその一人である事など。
「ナウマンは人の名前だったのか。それも東大の教授だった…」驚いたり感心したりしながら話を聞くうちに、私は徐々に化石の世界に引き込まれて行った。まるで催眠術をかけられたかのように。
「山田さん今日はナウマンの標本から撮影しましょうか?」
「はい」
私は佐々木さんの後について薄暗い廊下の先にある標本収蔵室に入って行った。保管庫の引き出しの中にはナウマンゾウの歯の化石があった。私が想像していた化石のイメージとまったく違う、つややかでしっとりした質感の赤褐色の美しい物体。私はその化石を自分の手で持ったとき何かを感じた。それは「化石の気持」ではなかったが、「この化石はナウマン博士が最も愛していたものにちがいない」という確信だった。ナウマン博士を身近に感じた私は「化石を撮ってみたい」と思うようになっていた。私が最初に撮影したのはその美しい化石だった(表紙写真)。
生命の記憶
何も知らない状態で始めた化石の撮影も、回数を重ねるうちにいろいろなことが分かって来るから不思議なものだ。化石に付けられた整理番号「PA…」「MM…」「CV…」など、最初の文字が時代でPが古生代、Mが中生代、Cが新生代。二番目の文字が節足動物、軟体動物、脊椎動物、などの化石が所属する種のグループらしい。ここまで分かって来ると化石にぐっと近づけたようで撮影は楽しくなってくる。撮影は古い時代のものから順に進められた。古生代の化石を撮影していると2枚貝の貝殻のようなものにしばしば出会った(写真2)。整理番号を見ると「PB…」。佐々木さんに質問すると「これは腕足類と言って貝に似てますけど、全く別な種の生物です。古生代に繁栄したもので、現在は少なくなっていますが生息してます。日本ではシャミセンガイと呼ばれているものもその仲間です」との事。腕足類に興味を持ち調べてみると面白いエピソードに出会った。大森貝塚発見で有名なエドワード・シルヴェスター・モース博士が日本に来た理由が、腕足類の研究のためであった。来日後、明治政府に請われて東京大学の教授に就任したそうだ。今私は、東京大学の博物館の一室で腕足類の化石の撮影をしている。かつて生きていた生物の形を、今を生きる私が写真作品の中に閉じ込めようとしている。化石たちの声を聞きながら、そして多くの研究者たちの情熱を感じながら。
形の不思議
古生代の植物化石を撮影していた時、私は不思議な感覚に陥った。古生代のシダ植物の化石が、どう見ても日ごろ見慣れたワラビやゼンマイにしか見えない。「何も変わってないのではないか?」(写真3)。今回の撮影を手伝ってくれたフォトグラファーの山口隆広君も同じように感じたらしい。「変わった形をした化石が古くて、今と同じ形のものは新しいと思っていたけど、それは違ってました。何の変哲もない普通なものが古生代だったりしてビックリです」との感想をもらしていた。
古生代の巻貝の化石にはさらに驚かされた。どう見ても現在のものと同じ形をしている。今にも動き出しそうだ。数億年の時間の経過を全く感じさせない形が目の前にある(写真4)。「変わる必要のない完成された形。貝は数億年前から『幸せ』だったんだ」と直感した。生物は生きるために進化し続けて来た。進化したから今を生きている。進化しなければ生き残れなかった我々は、本当は「不幸」な存在なのかも知れない。巻貝は数億年ものあいだ幸せな夢を見続けているように思えてきた。
生きている私
古生代・中生代・新生代と5億年にわたる時間の旅を進めるうちに、私の体の中に生物の進化の歴史がどんどん浸透し堆積して行った。頭の中では壮大な生命史絵巻がくり返しくり返し展開されるようになっていた。そんな時に「化石を撮影しているとどのような気持ちになりますか?」と問われて、「化石がかわいく感じます。生きた証が愛おしい」と私は答えた。化石になった生物はそれぞれの時代に確実に生きていた。きっと懸命に生きていたに違いない。過去の「いのち」の延長に今の私がいるのだ。そう、ちっぽけな私は今を生きている。化石に触れれば触れるほどその思いは強くなって行った。
2012年5月30日、化石の撮影の最終日。私と山口君は首長竜のヒレの化石を組み立てていた。バラバラな状態で収納されている骨片を、論文に掲載されている写真と図を頼りに組み合わせてゆく。まるでパズルのようだ。この小さな骨のひとつひとつが首長竜の「いのち」の証。形は徐々に出来上がって行く。組み立て作業が終了すればライティングをして撮影するだけだ。私は少しでも長く恐竜の化石に触れていたかった。山口君もきっとそう思っていただろう。私達は化石に語りかけながらゆっくりと作業を続けた。まるで仕上がってしまうことを惜しむかのように(写真5)。
後日談
2012年6月1日、私と山口君は佐々木さんから教えていただいた「ミネラルフェア」なる催しの会場にいた。さして広くないスペースに化石や鉱物標本、宝石、アクセサリーそしてパワーストーンなどを扱う店が所狭しとブースを出し商品を並べている。まさに玉石混交。私達は狭い通路や人混み、そして異様な熱気に戸惑いながら各ブースを丁寧に見て回った。ドイツから来ている化石商のブースの前で山口君が「あの標本、撮影しましたよね。クランツのレプリカ標本ですよ!」と言う。指差す方を見ると壁には見覚えある標本(レプリカ)が展示されていた(写真6)。
「私はこれと同じものを東京で撮影しました」と店主に話しかけると、けげんな顔で「そんなはずはない、これはボン大学にあるのだから」と言う。どうやら本物の化石を撮影したと誤解したらしい。ボン大学と聞いて、店にある標本は私が撮影したレプリカと同じものだと確信した。クランツ標本のラベルにBonnと書いてあったのを記憶していたからだ。
「本物ではありません、東京大学が100年以上前にクランツ商会から買ったレプリカ標本を撮影したんですよ」と説明すると、店主はしばらく考えて「クランツのならこれと同じだろう。うちが作ってクランツに売ったのだから」と胸を張る。話の真偽は分からないが、ドイツから遥々やって来た化石商とクランツ標本について話せたことがとてもうれしかった。また、化石の撮影を通して私がそういう事を語れる人になっていたことも…。
私もようやく「化石の気持」が分かるようになったのかもしれない。
(本館研究事業協力者/写真家)