東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime17Number4



小石川分館特別展示
生薬標本展示「生薬リヴァイヴァル」

野口博司 (静岡県立大学薬学部生薬学講座教授/生薬学・生物分子科学)

 平成24年12月8日から同月22日にわたって東京大学総合研究博物館小石川分館で「生薬リヴァイヴァル」と銘打った、生薬標本の展示会が総合研究博物館館長西野嘉章の尽力で開催された(図1)。
 展示された標本は同館長が自ら保全・整備された医学部薬理学教室由来の生薬標本1)と、主に薬学部門で蒐集され、生薬学・植物化学教室助教授秋山敏行によって整理された標本2)で、前者は明治30年以降のメルク社・津村研究所由来のものが中心で、後者は薬学部で蒐集されたものばかりでなく現理学部が帝国大学理科大学と呼ばれていた頃の植物学教室に由来する標本も含まれている3)。生薬標本の展示は50年振りとのことで、博物館館長の炯眼に感服するしだいである。昨今中国が自国の資源を保全する姿勢を強めレアアースの輸出を抑制したため、経済界は大騒ぎになったが、実は多くの生薬類も現在中国を中心に輸入に依存している。漢方薬の生産量は年間ざっと1500億円程度に過ぎないが、甘草などは醤油やタバコにも使用されており、もし中国が輸出を差し止めれば大騒ぎになるだろう。
 植物資源は脆いものである。例えばマラリアの特効薬キニーネはペルー原産であるが、今や原産地では資源が枯渇し、プラントハンター時代に移植されジャワ等の地で植栽されたものが中心になっている。環境省の絶滅危惧種レッドブックには既に、紫雲膏や「バイオ口紅」の色素としての歴史をもつ生薬紫根の基原植物ムラサキが絶滅危惧IBに指定され、小柴胡湯で著名なミシマサイコも絶滅危惧II類に入っている。ところで柴胡は最頻用漢薬でもあるが、「銀柴胡」等の名称で用いられたものとの文献学的異同が問題になることもあった。古典を尋ね、使用に供された生薬を検討しようとすれば、どんな詳細な既述よりも拠り所となるのは標本だということである。この展示会でも「麻黄」は展示されていたが、そこで麻黄とだけ記載されていた標本にはマオウの仲間でも、Ephedra sinicaとしての形態がしっかり残っていた。このように標本は存在することで意義があるのである。
 明治18年に薬化学講座教授長井長義が世界で最初に漢薬麻黄の基原植物マオウからエフェドリンを単離・構造決定した。これは日本の薬学が世界の水準に達したことを示し、各分野の殖産興業に必死だった明治政府の薬学分野への負託に応える第一歩となった。しかし、漢方処方の医学的評価をなおざりにしたためエフェドリンの医薬品としての発見を陳克恢とカール・F・シュミットに譲ることになった。
 長井のエフェドリン発見から、その喘息薬としての作用発見までには37年の歳月が必要だった。本展示会が開かれるまで生薬展示の行われなかった50年は有効成分を追求し、化学的な知見を積み重ねるために必要な歳月だったかもしれない。しかし今日、人々は複数の成分がもたらす相乗作用に期待を抱いている。生薬麻黄の作用のうち鎮咳作用はエフェドリンで、抗炎症作用はその立体異性体であるプソイドエフェドリンで説明される。エフェドリンだけでは麻黄の薬理作用は十全に発揮されない。生薬の薬効を解明するには多成分系の科学が不可欠で、その全体像の把握には現代の最先端科学が求められる。
 漢方薬は複数の生薬で一つの処方が構成される。下剤として頻用される大黄甘草湯は多分最も単純な処方の一つだが、大黄と甘草の二つの生薬で構成される。甘草は生薬としての名称で、マメ科のカンゾウの根を乾燥したものを呼び、大黄はタデ科ダイオウの根茎を指す。カンゾウもダイオウも、様々な同属植物に由来し、その多様な起源によって、生薬としての性質も異なる。カンゾウは中国の東北地方や、新疆ウイグル自治区の特産品で、中国を中心に諸外国からの輸入に頼っている。標本や形態抜きに商品の由来を確定しようとすれば、世界中のカンゾウのDNA分析結果と、手元の甘草のデータを照合するようなことになる。しかしこのときも実体としての標本が一番である。
 展示されたタケダ漢方便秘薬は大黄甘草湯の錠剤4)だが、これに使われている大黄は、東京帝国大学教授であった中井猛之進が朝鮮半島北部にある標高2541メートルの冠帽峰で発見した一株の朝鮮大黄(Rheum coreanum)に由来する。その朝鮮大黄にストックホルムの植物園からもたらされた同属異種(Rheum palmatum)を掛け合わせ、18年余の歳月をかけて育種された交配種「信州大黄」(種間雑種)である。信州大黄はダイオウの自家不和合性を克服し効率の良いバイオマス生産を可能としたF1雑種であり、世界に誇るバイオエンジニーアリングの精華である(図2)。
 下剤としての成分は、センノサイドという化合物で説明することができ、このセンノサイドはプルゼニドという名前で、40代以上の方々は胃検診でバリウムを飲まされた後で渡された経験があろう。しかし大黄の効能は単純な下剤としてばかりではなく便秘に伴う各種の炎症の抑制や、向精神作用までも含んでいる。どんな大黄が向精神作用を示したのか、今となっては謎である。しかし大黄については、雅黄や蛋吉など様々な名称の「生薬大黄」と臨床データを頼りに今のうちに研究を開始すれば間に合いそうなところである。
 レアメタル同様、現代を生きる我々にとって、生薬は生活の糧として不可欠なものであるにも関わらず、いやそれだからこそ、天然の資源は確実に損耗しつつあって、それを代替する基盤技術はまだ確立していない。我々が今後も自然の恵みを享受していく上で、学術研究機関に蓄積されてきた「生薬標本コレクション」が、日本国の中で最低限一カ所常時展示されるばかりでなくユニバーサルにアクセス可能とすることが、先端科学の研究用リソースとしてどれほど大切なことか、認識を新たにしなくてはならない。

 1) 櫻井 隆(1997)「生薬レファレンスコレクション」『学問のアルケオロジー』東京大学出版会、p. 457。
 2) 秋山敏行(1985)『東京大学総合研究資料館標本資料報告第11号:東京大学総合研究資料館薬学部門所蔵生薬標本目録』。
 3) 折原 裕(1999)「薬学部門」『東京大学総合研究博物館』世界文化社、pp. 88-89。
 4) 武田薬品工業ヘルスケアカンパニーのご協力による。





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図1 展覧会風景.


図2 武田漢方便秘薬の錠剤(左)と信州大黄(右).