��　勝彦（一般社団法人中国研究所前理事長・創価大学名誉教授／現代中国研究）

　2013年４月６日、�� 正彦の残した蝶の標本が東京大学総合研究博物館に寄贈され、長男の�� 和彦と矢後勝也助教が寄贈同意書に調印した。
　　私の次兄である�� 正彦（諏訪清陵高校57回生）は2012年８月に肝臓がんのため逝去した（亨年76歳）。長年の蝶の生態研究の成果を『信州の蝶の写真集』にまとめたいと考えていたが、その時間が残されなかった。幸いなことに、東京大学総合研究博物館による標本の受け入れが実現した。これは、長く交友のあった松本むしの会の高橋三千雄氏、飯田市の井原道夫氏、飯田市美術博物館の学芸員（生物）四方圭一郎氏のお世話によるものです。
　蝶の標本の内容は大型ドイツ箱294箱、44,570頭（図１）。�� 正彦が、主として長野県中南部（諏訪盆地、松本平、伊那谷）で、1950 年代から自分で採集（飼育）したものです。
　長野県でこれまで生息が確認された蝶類は、151種で、標本の一種平均では300頭近くになるが、普通種の標本数はこの数倍に上る。
　長野県生息の蝶は、日本南北、高山と平地の生息種を含んでいて、全国でも最大の種類を数える。普通種、希少種を含め、長野県中南部の蝶を60年の時系列で採集し続けたもので、日本の蝶の、基本的なデータベースの一部を構成すると言える。長い時間をかけた採集の結果、生息の消長、地域間の亜種、変種、前後翅文様、色彩の変化等を確認する上での原素材を提供することになった。
　生態環境の変化の中では、高度成長により生息範囲が変化、縮小した経緯、絶滅危惧種が生じた変化、温暖化で南の蝶が生息するようになった過程、などにおいて確かな証しとなることが期待される。
　標本と同時に寄贈された膨大な数の蝶の生態写真も含めて、「�� 正彦コレクション」は今後も、日本の蝶の比較形態学的研究、分子系統学研究等に、有力な原資料を提供してゆくであろう。
　コレクションには、そのほか蛾の標本8,072頭が含まれており、これは飯田市美術博物館に寄贈された。またカミキリムシ3,038頭、ゴミムシ1,506頭などは高橋三千雄氏に寄贈された。

　�� 正彦は、1935年に長野県茅野市宮川に生まれ、宮川中学を経て、1954年に長野県立諏訪清陵高校を卒業し、諏訪精工舎に入社、1960年頃塩尻工場設立に伴い塩尻に転居し、1995年にここで退職した。
　このために、1950年代までは諏訪での蝶類生態研究に集中したが、1960年代以降は塩尻を拠点に、車を足に一時間程度で到達できる、長野県全体に活動拠点を拡大する。同時にこの頃から蛾とカミキリムシにも採集の範囲を拡大している。
我が家は４兄弟１妹で、正彦が二男、私は三男である。私の中学時代は３歳年上の兄正彦の高校時代であり、兄の採集に随行することが多かった。
　ここでは、この時期の体験を中心に、兄の諏訪時代の蝶の生態研究の拠点と活動について述べてみたい。
　生家の旧称は諏訪郡宮川村茅野で、村の中心に位置する。八ヶ岳山麓から南への流れを集める主流の上川（かみがわ）と東から流れる宮川に挟まれたところである。二つの河川は、霧ヶ峰から続く永明寺山と杖突（つえつき）峠に挟まれて、300メートル位離れて並流したまま、西に曲がり、諏訪湖に注ぐ。茅野は八ヶ岳のすそ野の扇状地と諏訪湖周辺盆地の、扇のかなめに当たるところにある。
　兄の蝶の採集ホームグラウンドは、北は八ヶ岳山麓と霧ヶ峰で、南は守屋山、杖突峠、晴ヶ峰、金沢峠、入笠山と続く。上川の左岸には長峰（ながみね）という、八ヶ岳のすそ野の中でも長い台地があり、その尾根を旧玉川村、子の神（ねのかみ）から、淋しい畑と林地の道が約２キロ続いていた。この道は、御柱（おんばしら）祭の御柱道であり、宮川小・中学校まで下ってきて上川の大崖の上で、西隣の木落とし坂に達する。木落とし坂の上からは、茅野の町と諏訪湖方面を見渡すことができる。
　諏訪大社の御柱祭は、寅年と申年の春、６年ごとに行われる。八ヶ岳山麓で切り出した８本の巨木を御柱として引き下ろし、守屋山のふもとにある上社（かみしゃ）まで引いてゆき、前宮と本宮の隅に各４本ずつ柱を建て直す。木落としで御柱は急坂を引き落とされる。余談だが、我が家の裏にある田んぼと養魚池の先に、木落とし坂が見上げられた。二階から大勢で木落としを見物していて、木やり歌と歓声の中で、御柱の前後のメドデコに鈴なりの氏子たちが、滑り降りる時、落ちるか、落ちないか、やきもきしたものである。御柱はＪＲ中央線をくぐり、家の近くを通り、さらに宮川を渡って、上社に達する。
　長峰は、1970年代から次第に住宅地に変わっていったが、子供時代の遊び場所で、兄にとっては庭のようなものであった。宮川小学校の北の畑、その上り斜面には大きなクヌギの木が一本立っていた。この大木は幹がひと抱え以上あり、樹液に集まるカブトムシや蝶を採ることができる楽しみな場所だった。
　兄はここで、1958年に諏訪では初めて、ムモンアカシジミの幼虫の採集と飼育に成功した。クロミドリシジミの幼虫の餌としてクヌギの葉をとっていたところ、偶然、この枝で、ムモンアカシジミの幼虫と餌であるアブラムシや、世話をするアリを採集した。そしてその飼育と羽化にも成功した（ＨＡＳＨ蝶類同好会会誌２巻１号）。
　長峰西側の斜面では、兄がスミレの群落で、ミドリヒョウモンやオオウラギンスジヒョウモンの幼虫をとるのを見た。ニセアカシアとクリなどの混成林の下で、兄は、“先ず食痕を見て、次にフンを探すと必ず近くにいるんだ”、と言ってスミレをかき回すと、大きな幼虫がごろごろとでてきた。
　家の庭には採集してきた食草が植えられていた。入笠山からとってきたアブラナ科のクモマツマキチョウの食草、ミヤマシロチョウの食草ヒロハヘビノボラズとメギ。ヒメギフチョウの食草ウスバサイシン等々。
　兄の飼育に関する母親の一口話では、ある日畳をモクモクはっている毛虫がいるので、掃き捨ててしまった。夕方学校から帰った兄は、“卵から飼っていたのに”、と泣いて怒って、庭から軒下まで探し回ったがついに見つからなかった。母はそれ以後、虫を大事にしていたとのことである。
　ＨＡＳＨ同好会の浜 栄一氏は来宅した時のことを次のように書いている。「僕達の話を浜さんのお母さんがにこにこして聞いておられ、そのうちに浜さんの高校時代の蝶気狂いぶりを話された。毎日チョウチョを取りにばっかし行って勉強はそっちのけで大変心配された由。でも社会に出てからは、マージャンしたり酒を飲んだり夜遊びする道楽に比べたら、蝶々を採集する趣味は比べものにならない程高尚でありかつ健康的で、今になって本当によかったとしみじみ思うと話されたお母さんの言葉に僕までもほめられたような気がして心たのしい」（ＨＡＳＨ蝶類同好会会誌１巻１号）。
　蝶の標本の展翅の手堅さは一貫したもので、“展翅の場合には、蝶の前翅の後ろをそろえて胴体と直角にするのが基本だ”、と何回も聞いたことがある。生態研究の記録としては、小さな丸ペンを使った蝶の卵、幼虫、さなぎなどのペン画が記録の手段だった。ペン画の細密さについては、兄は高校時代にはすでに身につけていた。スミナガシの羊のような角をもった幼虫と、朴の木の葉先の独特な食痕の絵が、私の脳裏に今も鮮やかに残っている。高校３年時には、『蝶の生態覚え書き』を製本してまとめた。就職後しばらくして、はじめてカメラのアサヒフレックスを購入することができ、以後これが記録の手段となった（図２）。
　当時はヒョウモンモドキ、ネオ・ゼフィリュースという言葉を熱心に語っていた。ミドリシジミの仲間の採集、幼虫採取に私も時々随行した。兄と杖突峠に行って、アザミからヒョウモンモドキの幼虫を採集したことがある。
　直接親密に指導を受けていたのは行田哲夫氏で、ヒョウモンモドキに関する情報交換があった。上川の川隣りの永明村にあった行田歯科医院が哲夫氏の家で、何回か医院の門前までついて行った。いつも“ちょっと待っていろ”、と言っていたが、30分以上待っても戻ってこないと先に帰った。
　行田哲夫氏は1932年生まれ、中学時代から諏訪蝶類同好会に参加して、浜 栄一氏とともに中心的メンバーであった。日本大学芸術学部を卒業、学習研究社勤務を経て著名な動物写真家となった。

　私自身の思い出の中の「アポロ蝶」は、アサギマダラである。高校時代にはよく一人で山を歩いた。初秋の昼前、晴ヶ峰から金沢峠へと下ってゆくヒバ林の中で、ひんやりとした薄霧の中に、アサギマダラが二羽ふわりふわりと飛んできた。
　最近の研究によるとアサギマダラの一部は、これからはるか南西諸島にまで飛んでゆくものもあるという。