新規収蔵
古い計算尺
大橋秀雄(本学名誉教授・工学院大学名誉教授/流体工学)
電卓が容易に手に入るようになったのは1975年(昭和50年)頃からだったでしょうか。それまではソロバンが主役でした。汎用デジタルカウンターのソロバンは、名手の手にかかると加減乗除何でもこいの汎用計算器になりますが、凡人は加減にソロバン、乗除に計算尺と使い分けるのが普通でした。乗除算が主体の公式を使いこなす理系の学生には計算尺は必携品でした。等間隔の目盛りを振った物差しが2本あれば、足し算ができます。計算尺は、掛算が対数では足し算になることを利用し、対数目盛りを振った2本の物差しを使って掛け算の結果を求めるアナログ計算器で、単純な構造ですがたいへん便利しました。
ソロバンは、まだまだ生き残っていますが、計算尺の方は完全に過去の遺物となりました。いまの学生に計算尺を見せても、見たことがある人はほとんどいないでしょう。時代は変わり、計算法も変わります。でも技術史のなかで、計算尺が果たした役割は消えることはありません。あのゼロ戦も戦艦ヤマトも、計算尺で設計されました。歴史に残る名設計は、調和のとれたデッサンが決め手になっています。デッサンの精度なら2桁あれば十分です。無駄な桁数に注意をそがれず、全体的な調和に全神経を集中するには計算尺がぴったりでした。
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私の手元に、いま三つの計算尺が残っています。一番新しいのは、目盛り幅5インチのオール樹脂製のポケット計算尺で、ドイツ製です。30年以上前、何かの引き出物として貰った覚えがあります。次が、学生時代から愛用したヘンミ製の20インチ大型計算尺で、60年経った今でも新品と変わりません。竹の芯に樹脂板を張り付けた日本独特の構造で、滑りの良さと変形の少なさから、世界に冠たる名機として名を馳せました。これを使って設計したりレポートを書いたり、苦労と懐かしさがいっぱい詰まった青春記念計算尺です。
最後が本文の主題になります。50年ほど前、赤煉瓦の水力実験室が取り壊されて工学部8号館が建てられました。そのときに出た廃棄物のなかに、得体の知れない10インチ計算尺(図1)が転がっていました。カーソルのガラスも三つに割れていて哀れな姿でしたが、何となく気になって、捨てずにとっておきました。もちろん備品番号などない無籍ものでした。
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このところ、いずれやってくるその日にそなえ、残されたがらくたに家族が頭を悩ませないようにと、身辺整理に励んでいます。捨てるのにまだ未練があった書類や写真は、高性能スキャナーを奮発して次々にデジタル化して、いま9割がた終わったところです。大型段ボールいっぱいのファイルやアルバムが、ほぼ2ギガバイトのpdfに圧縮されます。私が生涯かけて書いたり喋ったりした記録が、1本のUSBにらくらく入ってしまいます。オレの人生はこのUSBかと思うと、悲しいような、笑い出したいような気分になります。紙に載った情報は圧縮して残せても、思い出は残せません。これは仕方がないとしても、問題は思い出が詰まったモノになります。いまその取捨に頭を悩ませています。
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さて上述の三つ目の計算尺は、捨てられても不思議でない運命でした。最後のご対面とじっくり手にとって眺めると、いろいろ発見がありました。硬質木材にセルロイド板を張った構造はいかにも古めかしく、目盛りは汎用計算尺と全く違っているうえに、左側にPelton、右側にFrancisと刻印があります。裏面に小さな字でドイツ語の説明があることは前から気付いていましたが、こんどはルーペを取り出してじっくり読みました。これは水車計画用の専用計算尺であることはすぐ分かりましたが、説明だけでは使い方も分かりません。しかし最後の最後に、ホル技師 (Ing. Holl) 著の “ Der Turbinenrechenschieber und seine Anwendung(タービン用計算尺とその応用)”を見よ、と書いてありました。
昔だったらここでお終いでしょうが、今や検索時代です。試しにグーグルに書名を入れてみると、さっとアマゾンに飛んで、その復刻版(図2)が売られていることが分かりました。160ページのペーパーバックでお値段は12ドル、早速注文したところ10日ほどでアメリカから届きました(今からでは遅い、売り切れです)。その本は1908年(明治41年)刊行ですから、この計算尺が東大の水力実験室にやってきたのは、明治の終わりか大正の初め頃だったでしょう。井口在屋先生が教授として活躍された時代で、100年も昔の話になります。カリフォルニア大学図書館は、この種の古い技術書の復刻を計画的に進めているようです。いまさら役に立つ本ではありませんが、歴史を担ったことは確かです。それを敢えて復刻・頒布する試みに、文化の厚みを感じます。
この計算尺は、水車の落差、水量、回転数から、ペルトン式かフランシス式か、また効率的に最適なノズル数やランナー数をさっと求める用途に適しています。その頃の水車技術者は、この計算尺をポケットに入れて現場を見て回ったのでしょう。光景が目に浮かびます。
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遙か昔の大先生が使ったと知った以上、カーソルのガラスが割れているぐらいでゴミにするわけにはゆきません。そこで、この計算尺の終の棲家に相応しいのはどこか、いろいろご相談したところ、結局東大の総合研究博物館に引き取ってもらうことになりました。旧主のお蔵に収まるというところです。命拾いした計算尺が、技術史の一証人として生き残ることは嬉しい限りです。
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