野内セサル良郎(日本マチュピチュ協会副会長)
ペルーの世界遺産で世界的に有名なマチュピチュ遺跡(図1)。その遺跡の麓にあるマチュピチュ村で、野内与吉は村の為に生涯を捧げた人物である(図2)。福島県安達郡大玉村出身の彼は、裕福な農家に生まれるも海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡った。農園で働いたが契約内容と実地の状況の違いから1年で辞め、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪する。1923年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ−サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務し、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わった(図3、4)。1929年にはクスコ〜マチュピチュ区間の線路が完成した。
その後与吉は、前年に結婚したマリア・ポルティージョとマチュピチュ村に住むこととなる。2年後の1930年には長男が生まれ、ホセと名付けるも2歳で他界。その後、2人の娘と2人の息子に恵まれる。のちに次男のホセは1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めることとなる。手先の器用だった与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り、村に電気をもたらした。村を住みやすくするため木を伐採していた際に、温泉が湧いたという証言もある(現在アグアス・カリエンテス村に温泉がある)。また、村で故障した機械も修理していたという。創意工夫に富み、労をいとわず、マチュピチュ村のために尽くして皆に喜ばれていたようである。
1935年には、この村で初の本格的木造建築である「ホテル・ノウチ」を建てた。建物の一部には線路のレールが利用され、床は当時では高価だった木材を用い、3階建てで21部屋を持つ立派なホテルであった。与吉は自分のホテルを村のために提供し、1階は村の郵便局や交番として無償で貸していたという。また、後には2階も村長室や裁判所として使用されていたようだ。ホテル・ノウチが村の中心となってマチュピチュ村は発展していった。
与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地のガイドもしていた。のちにアンデス文明研究家となる天野芳太郎がマチュピチュ遺跡を訪問した際に、1週間ほどホテル・ノウチに滞在し、マチュピチュ遺跡を隅々まで知り尽くしていた与吉が同行し案内したという。村人に信頼されていた与吉は人望を集め、1939〜1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務めた。マチュピチュ村が正式に村になるのは41年のことで、与吉はその直前に村の実質的なトップについたことになる。その後、マリア・ポルティージョと別れた与吉はマリア・モラレスと再婚し、5人の子供に恵まれた。
1947年にはマチュピチュ村の川が氾濫し、村は大きな土砂災害に見舞われた。そこで与吉は住人達とともに、地方政府あてに緊急支援を依頼した。そして地方政府からの命令で、復興のため1948年に与吉はマチュピチュ村村長に任命された。当時の新聞で土砂災害を伝える記事には与吉の名が記載されている。1950年頃、与吉はペルー国鉄クスコ−サンタ・アナ鉄道で再度働くために、妻のマリア・モラレスとクスコ市へ移り住むこととなった。定年まで勤めたのち、与吉はこの仕事を息子の一人ノウチ・セサル・モラレス(筆者である野内セサル良郎の父)に引継いだ。
1958年に三笠宮殿下がペルーを訪れ、マチュピチュ遺跡を見学した際に、与吉の長女オルガ野内が三笠宮殿下に花束を贈呈した。日本にいる家族がその新聞記事を目にし、与吉の消息を知ることになる。そして日本大使館を通じて与吉と連絡をとり、旅費を集めたおかげで、1968年与吉は故郷である福島県大玉村に52年ぶりに帰郷することができた。与吉の両親はすでに他界していたが、兄弟や親戚が与吉を歓迎した。与吉は日本に着くと「電気はついたか?」と質問したそうで、彼の中で時間が当時のまま止まっていたようだ。滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会を開くなど、村人にペルーの魅力を伝えていたようである。また、地元の新聞やラジオ番組に出演し、半世紀ぶりの帰郷に「今世浦島(現代の浦島太郎)」と紹介され、その音声も残っている。日本に戻るよう家族は説得したが、ペルーには11人の子供たちが待っているからと日本の家族と別れ、クスコに戻ってわずか2ヶ月後の1969年8月29日に息を引き取った。
こういったマチュピチュ村と鉄道の歴史、そしてそれに尽力した日本人の物語はまだあまり知られていない。この興味深い事実を一人でも多くの方に知っていただきたいと、孫の一人である日系三世の筆者・野内セサル良郎は活動を続けている。なぜ自分が生まれる6年も前に亡くなっていた祖父の事を語ろうとするのか。それは祖母が繰り返し祖父の話を聞かせてくれていたからである。「責任感の強い人で村の裁判官もやっていたんだよ」などと話を聞くうちに、私の中で祖父は英雄になっていた。日本で働きながら、名古屋の国際交流団体でマチュピチュ遺跡などペルー文化紹介の講師をしてきたのも、祖父に対する思いがあったからである。このような活動のかたわら、祖父が生まれた福島県大玉村やマチュピチュ村のあるペルーを訪れ、村人へのインタビューや文書資料の発掘といった調査を続けている。2014年、アンデスに関する講演会や勉強会などを企画する「日本マチュピチュ協会」を設立した。さらに多くの方に祖父の存在やペルーの魅力を伝え、祖父の意思を受け継ぎ日本とペルーの架け橋となりたいと思っている。