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研究紹介
植物考古学
赤司千恵(日本学術振興会特別研究員PD)
植物考古学とは
筆者は好きな科目は世界史と古文、嫌いな科目は数学と物理という文系人間なのだが、大学で考古学を専攻したところ、植物考古学という分野に行きついた。現在は日本学術振興会の特別研究員として、この博物館に机をいただいている。
植物考古学とは、遺跡から出土する植物の遺存体から人間活動を復元する、考古学の方法の一つである。植物遺存体は、肉眼で見えるかどうかによって、大型遺存体と微小遺存体に大別される。大型遺存体というのは、具体的には植物の種子や果実、木材などがこれにあたる。考古学に関心のあるひとなら、縄文時代の三内丸山遺跡でのクリ栽培の話や、ドングリがつまった貯蔵穴、弥生時代に伝わってきたイネの炭化種子などが思い浮かぶかもしれない。因みに微小遺存体には、プラントオパール(植物珪酸体)や花粉などが含まれる。これらのデータを用いて、当時の農耕や採集、燃料や建材、また遺跡周辺の環境などを調べる研究が、今では世界各地で行われている。
筆者が専門とする出土種実の分析は、植物考古学の中では最も古典的手法と言ってよい。通常種実のような有機物は腐ってしまって残らないが、火を受けて炭化していると、微生物に分解されることもなく数千年地中に遺存することができる。そのような炭化種実を遺跡から回収し、どんな植物が利用されていたかを調べるのである。ただ、肉眼で見えるといっても種実は小さいので、発掘中に1点1点取り上げることはできない。そこで、フローテーション(水洗選別)という方法がよく使われる。発掘現場から採取した土壌サンプルを水の中に投入し、攪拌して比重の軽い炭化物を分離し、取り出すという方法である(図1)。
筆者が博物館で毎日何をしているかというと、ひたすら顕微鏡を使って(音楽をききながら)この炭化物の仕分けである。フローテーションで取り出した炭化物には、同定できない木材片や砂粒、植物の根などの不純物が多数混じっている。そこから同定可能な種実をピンセットでつまみだし、種類ごとにわけて数えて記録する。フローテーションも同定作業も単調で根気のいる仕事なので、黙々と地道な作業を続けられる特性が必要とされる。
アゼルバイジャン新石器時代の研究
筆者は現在、南コーカサスのアゼルバイジャン新石器時代の出土種実を資料とし、同地域の生業や周辺環境についての研究をしている。アゼルバイジャンはカスピ海の西岸に位置する国で、旧ソ連であることからごく最近まで近代的な発掘例がなく、植物遺存体のデータも断片的だった。西アジアは農耕が発祥した地域であるのに対し、南コーカサスは農耕が外部から伝わってきた地域である。そのため、アゼルバイジャンの新石器時代を対象とするにあたっては、日本の稲作と同様に、外部からもたらされた農耕がどのように受容され、定着していったのか、すなわち「新石器化」のプロセスが最も注目すべきポイントとなる。
コーカサス新石器時代については旧ソ連時代の研究例があり、裸性のコムギが多く出土することは知られていた。裸性のムギというのは、皮性のムギから突然変異でできたもので、可食部である種子がもみ殻に密着しておらず、籾すりをしなくても簡単に種子を取り出せるという利点がある。皮性のコムギは今ではほとんど姿を消してしまったが、西アジアにおいては新石器時代から少なくとも前期青銅器時代までは、コムギは皮性が主流であった。その後、おそらく灌漑技術の発達と関連してか、西アジアでも裸性コムギが徐々に増えてくるのだが、コーカサスでは新石器時代、つまり農耕が伝わった頃にはすでに、裸性コムギが主要作物として出てくるというのだ。ただし旧ソ連時代の発掘は人口層位的で、出土した裸性コムギがいつの時代に属するのか確実でないケースが多かった。
筆者が分析を行っている、紀元前6千年紀半ばのギョイテペ遺跡(図2)でも、細長い形状の皮性コムギ種子も出てくるが、種子が丸っこくずんぐりした裸性コムギも多く出土することが分かった。これまでの研究で言われてきたように、新石器時代から裸性ムギを好んで栽培していたことが確かめられたわけである。しかし、ギョイテペに先行するハッジ・エラムハンル・テペという前6千年紀前半の遺跡では、異なる様相が見て取れる。この遺跡で出土するコムギは、ほとんどが皮性なのである。少なくともクラ川中流域では、前6千年紀のうちに栽培される穀物の種類が皮性から裸性へとシフトしたことになる。
この背景に何があったのかはこれからの議論であるが、ハッジ・エラムハンル・テペは、栽培植物を伴う遺跡としては現在アゼルバイジャンで最も古い。もしこの遺跡が農耕伝播直後の様相を示すとすれば、当初は皮性中心のいわば「西アジア型」作物アセンブリッジだったものが、裸性ムギを重視する「在地型」へと変わっていったともとれる。あるいは、両遺跡に住んでいたのが異なる集団で、異なる文化的背景を持っていたのかもしれない。分からないことだらけの時代なので、腰が痛くなるフローテーションも、目が疲れる仕分け作業も苦にならない。
西アジア歴史時代の研究
筆者のもう一つの主要なフィールドは、シリアの青銅器時代である。
西アジアにおいて植物考古学が始まったのは、もともと農耕起源を探究したいというのが動機だった。そのため、1970年代以降は旧石器時代末や新石器時代の遺跡については、植物や動物などの有機物の分析が、必ずと言ってよいほど伴っていた。今ではそれだけでなく、文字資料のある歴史時代の遺跡についても植物考古学が導入されるようになってきている。筆者が担当したのは、テル・ガーネム・アル=アリ遺跡(青銅器時代)とテル・ルメイラ遺跡(青銅器〜鉄器時代)で、この時代の主作物や燃料、穀類の貯蔵方法などについてのデータを提供することができた。
西アジアの新石器時代以降の遺跡からは、現在でも使われている日干レンガの家や、伝統的なパン焼きがまとよく似た遺構がしばしば見つかる。食生活も数千年の間、大きく変わらなかったと思われがちだが、実際には栽培される作物は主食となる穀類でさえも、時代によって大きく変わっているのである。
例えばテル・ガーネム・アル=アリ遺跡からは、作物としてはオオムギ、皮性コムギ、レンズマメ、ブドウが見つかったが、特に多かったのはオオムギである。テル・ルメイラに至っては、穀類はオオムギしか出てこない(図3)。このようなオオムギの卓越は、西アジア青銅器時代のほとんどの遺跡に共通している。オオムギはコムギに比べて乾燥や塩害にも強いとされているので、不作のリスクが低い。現在は飼料作物として栽培されるオオムギだが、青銅器時代の西アジアにおいては、ひとの重要な食料だったと考えられる。
しかしながら、銅石器時代までは、これほどオオムギばかりが大部分を占めることはなく、皮性コムギ(エンマーコムギ、アインコルンコムギなど)も、オオムギと同じくらい出土する。前期青銅器時代には集落数が大幅に増えるので、この時期のオオムギ偏重の穀物栽培は、安定した収穫を得るための策だったと思われる。その後再度コムギが盛り返し、いつ、どのように、なぜオオムギを抑えて主食になるのか、ローマ時代や中世の遺跡でもいつか研究できたらと思っている。
ユーラシアを東へ
これまでの主なフィールドは西アジアやコーカサスだったわけだが、昨年から中央アジアのキルギスの資料も扱わせてもらっている。遺跡は世界遺産にもなっているアク・ベシム(古代のスィアーブ)で、時代は中世である。文字資料が豊富なこの時代になっても、食や農作物が記録されることはまれなので、植物考古学が力を発揮できる場面なのだ。文献学と協力しながら、当時の食生活を復元できるのが楽しみである。
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図1 フローテーション装置.
図2 アゼルバイジャン、ギョイテペ遺跡の遠景.
まわりはコムギ畑.
図3 オオムギ(シリア、テル・ルメイラ出土).