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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime21Number2



小石川分館特別展示
『工学主義―田中林太郎・不二・儀一の仕事』 によせて

寺田鮎美(本館インターメディアテク寄付研究部門特任准教授/文化政策・博物館論)

 小石川分館では、2017年2月4日から5月28日まで、特別展示『工学主義――田中林太郎・不二・儀一の仕事』を開催する。本展覧会では、当館所蔵の田中儀一旧蔵品の中から、「工学」関係資料に着目し、皇居や東宮御所の造営に携わった林太郎(安政3−大正13[1855-1924])、わが国最初の日本語による機械設計の教科書を執筆した不二(明治10−大正11[1877-1922])、国会議事堂の内部装飾に参画した儀一(明治35−昭和60[1902-1985])という「田中家」親子三代の仕事を紹介する。

田中儀一旧蔵品
 最後の所有者である田中儀一の名を冠した本資料体は、田中家に由来する文書、写真、物品、書籍等から構成され、「工学」関係だけでなく、歴史や美術資料など多様な分野にまたがる。資料数は合わせて千件を超える。
 私が初めて田中儀一旧蔵品に接したのは、2013年8月に、JPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」の常設展示室内にて、2005年および2007年に寄贈された資料体の中から工芸品類を取り上げ、展示を行った時である。展示物の中に、宮中の慶事の際に特別な引き出物として制作されたボンボニエールがあった。
 そのうちの3点について、本資料体には、どの慶事の際にそれらのボンボニエールが下賜されたのかが分かる、帝大工科教授の不二宛の招待状が含まれていた。宮中饗宴参内券や車寄せの整理券、ドレスコードの注意書きまで残されているのを目にし、ボンボニエールの工芸的な価値のみならず、それにまつわるものを合わせ、複合的に学術的な価値を形成していることが非常に面白いと思った。
 さらに、2014年に追加寄贈を受けた資料体には、田中家に関係する人物のたくさんの写真資料が含まれていた。例えば、帝大工科教授を務めた不二の関係では、東京大学の学史資料としての価値が見いだされる、当時の帝大教授陣の交遊を示す写真もあった。しかし、そのようないわば「公」の観点では扱いきれない、節目ごとに記録された「私」的な家族写真も多く、写真の社会史として興味深い資料体であると感じていた。
 そこで、2015年8月に、インターメディアテクで実施している演劇創作プロジェクトのパフォーマンスイベント「Play IMT 3」の際に、愛をテーマにした構成ユニットの一つとして、「愛の家族写真」というタイトルをつけ、不二を中心とした家族写真を用いて、一日限定のインスタレーションを行った。
 このように、田中儀一旧蔵品とは、資料体の点数や分野の多様性から、非常にユニークな大学博物館コレクションであり、さまざまな可能性を有している。それゆえ、本資料体の調査および研究は今も現在進行形にある。そこで、今後の調査研究を発展させていくために、今日まで残された本資料体の存在とその魅力の一端を、現段階で、より多くの人々に伝えることに意義があると考え、特別展示として初めて本格的に一般公開することになった。

田中家の系譜
 田中儀一旧蔵品の中核を占めるのが、今回の特別展示のテーマに取り上げた「工学」関係のものである。その理由は、林太郎・不二・儀一という親子三代がそれぞれ、本稿の冒頭に列挙したような、近代日本における「工学」分野の発展を象徴する重要な仕事に携わってきた人物であることによる。彼らの足跡は、この三代が連なる田中家が「からくり儀衛門」と呼ばれた田中久重(寛政11−明治14[1799-1881])の系譜であると聞けば、よりいっそうなるほどと首肯されるかもしれない。
 この初代久重は、久留米出身で、江戸から明治にかけて活躍した発明家、技術者として知られている。からくり人形や万年時計の製作では日本の在来技術を展開し、後に欧米の近代技術を学ぶと、佐賀藩精錬方や長崎海軍伝習所で蒸気機関車や蒸気船の製造を試みた。このため、日本の近代技術発展の祖の一人として、必ずといってよいほど名前が挙がる人物である。国立科学博物館や江戸東京博物館、そして東芝未来科学館の常設展示で見たことがある人も多いだろう。
 初代久重の弟子で田中家の養子となった二代目田中久重(金子大吉)(弘化3−明治38[1846-1905])は、廃藩置県後に東京に移住した初代久重に伴われ上京し、電信機械製造等の東京での事業にともに携わり、初代久重の死後、芝浦に田中製造所を開く。これが、後に三井に経営が譲渡され、芝浦製作所と改称し、後の東芝につながる。このように、二代目久重もまた、田中家の系譜として、日本の工業史の分野で比較的名前が知られてきた。
 一方で、林太郎・不二・儀一の系譜は、彼らの関わってきた仕事の大きさに対して、これまであまり知られてこなかったと言えよう。その理由の一つは、林太郎の養父にあたる二代目田中儀衛門(文化13−元治元[1816-1864])の早世にあるかもしれない。
 この二代目儀衛門とは、初代久重とともに活躍した人物で、元の名を浜崎岩吉と言い、久重の甥で養子、娘・美津の夫にあたる。佐賀藩では第十代藩主の鍋島直正(閑叟)(文政10−明治4[1817-1871])に重用され、父以上の働きをしたとも言われている。しかし、元治元年(1864)、息子の岩次郎とともに、不幸な出来事により48歳で急逝してしまう。
 翌慶應元年(1865)、初代久重の学友であり佐賀藩精錬方の同僚であった中村奇輔(文政8−明治9[1825-1876])の次男・林太郎が9歳で二代目儀衛門の養子となり、後にその娘・峰千代と結婚する。この背後には、二代目儀衛門の死を大いに悼んだ閑叟公の配慮があったという。まだ幼少であった林太郎には、初代久重の弟子で、後に工部省技師を務め、電信技術者として名を残した田中精助(梅川重泰)(天保7−明治43[1836-1910])が後見人についた。
 一方、二代目儀衛門の死後、初代久重の弟子であった金子大吉が、慶應元年(1865)に初代久重の養子となり、後に二代目久重を名乗る。もし、二代目儀衛門がもう少し長生きしていたとしたら、林太郎の運命は変わっていたかもしれないとするのは考えすぎであろうか。
 不二もまた、明治27年(1894)に林太郎の養子として田中家に入り、明治34年、林太郎の娘・芳子と結婚する。佐賀県士族で、近代様式ガラスの基礎を日本に広めた技術者として知られる藤山種廣(生年未詳−明治19[1886])の次男として生まれた。兄の常一(明治4−昭和11[1871-1936])もカーバイド工業を開拓した工学博士として知られた人物である。
 儀一は、この不二・芳子夫妻の長男として生まれた。「儀」の字を命名したことから想像するに、田中家待望の男子誕生だったことだろう。
 このように、林太郎・不二・儀一の系譜、そして田中家とは、初代久重以降、単純な一本線を辿るのではなく、周辺の技術者とともに近代日本の「工学」発展に寄与してきた、興味深い集団を形成しているのである。

林太郎・不二・儀一の仕事
 林太郎は、明治8年(1875)に工学寮に工学専門で官費入寮を申しつけられると、明治14年に工部大学校機械科を三期生として卒業する。言うまでもなく、工部大学校は日本初の本格的な官製高等教育機関であり、少数精鋭のエリートが養成された。
 卒業後すぐに、林太郎は工部省技手に任命され、明治15年には皇居御造営事務局に出仕すると、皇居(戦災により焼失した明治宮殿、明治21年落成)の造営に参画し、暖房設備を担当する。その建設工事の延長線上で、二重橋(正門鉄橋、明治21年竣工)の現場監督も務めた。
 さらに、工部大学校造家科第一期生であった宮内省内匠頭の片山東熊(嘉永6−大正6[1854-1917])のもと、東宮御所(現迎賓館、明治42年竣工)の暖房設備を担当した。図1の肖像写真は、明治34年、林太郎が46歳の時、東宮御所御造営局技師に任命された年に撮影されたものである。
 不二は、第一高等学校工科を経て、東京帝國大学工科大学機械工学科を明治34(1901)年に卒業する。在学中の第三学年次には、同学年の機械工学科で唯一の特待生に認定されるほど優秀であった。
 卒業後は同学科で講師、助教授として教鞭を執り、明治39年に、わが国最初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製図』前編および後編を同僚の内丸最一郎(明治10−昭和44[1877-1969])との共著で出版する。図2の肖像写真は、その翌年の明治40年、不二が29歳の時に撮影されたものである。
 明治41年から3年間は、文部省の命で機械工学研究のため英・独・仏へ留学する。帰国後の明治44年には教授となり、機械工学第二講座、応用力学講座の担当となる。大正2(1913)年および4年に『応用力学』第一編・第二編を、大正8年および逝去後の12年に『機械製作法』第一編・第二編を出版し、専門家教育に貢献する日本語の教科書を次々と世に送り出した。
 儀一は、早稲田大学付属第一早稲田高等学院理科を修了後、早稲田大学理工学部建築学科に入学、昭和3(1928)年に卒業した。父の不二が逝去したのは、大正11年(1922)、儀一がまだ20歳の時であった。このことが、二科会などで活躍した洋画家・曾宮一念(明治26−平成6[1893-1994])に中学時代から絵を学び、画家を目指していた儀一の進路に影響したことは想像に難くない。
 儀一は大学卒業後すぐに、大蔵省営繕管財局の職員となる。翌昭和4年には、幹部候補生として千葉鉄道第一連隊に入隊するが、同年に除隊、昭和5年には再び営繕管財局に雇用され、意匠設計主任・吉武東里(明治19−昭和20[1886-1945])のもとで、嘱託として国会議事堂(昭和11年竣工)の内部装飾の仕事に加わる。図3の肖像写真は、鉄道連隊時代のものであるが、その前に営繕管財局にて既に吉武に出会い、国会議事堂の仕事に関わることがわかっていたのではないかと伺わせる鉄道連隊時代のスケッチも残されている。
 議事堂の内部装飾のうち、儀一が実際に担当したことが判明しているのは、便殿前広間の床モザイクならびに便殿入口上部のレリーフのデザイン、玄関大広間の吹き抜け上部の四つの壁画のうち二つなどである。
 今回の特別展示では、ここに紹介した彼らの主要な仕事について、図面や図案、スケッチ、写真、関連する記念品などを中心に、一堂に並べて見せる。当時最高水準の近代「工学」教育を受け、工学者あるいは専門技術者として国家規模の新事業に携わり、また「工学」を後進に伝えていった、林太郎・不二・儀一という三人の主要な仕事を一度に概観することにより、近代日本における「工学」の黎明期から発展期までという一つの時間軸が浮かび上がる。それとともに、それぞれの仕事を横断的に示すことで、土木から、建設、材料、機械、建築、意匠・デザインまでという「工学」が扱う領域の多様性が見えてくるだろう。

「工学主義」のアーキテクチャ
 「工学」とは、明治期の近代化において西欧から輸入された学問であり、日本の近代国家建設を担った技術である。「エンジニアリング」の訳語に用いられた「工」とは、「たくみ」と訓読みされるように、小さな細工ものから大きな建造物まで、それを形にする「たくみな」技術力を表す文字であり、西欧化以前から日本に存在していた概念でもある。これを考え合わせると、「工学」が日本に根づいていく過程を見る上で、「からくり儀衛門」に連なり、周辺の技術者集団とともに「工学」発展に寄与してきた田中家の系譜である林太郎・不二・儀一の仕事は、非常に興味深い対象であると言えよう。  さらに、上述のように、三人の仕事からは、「工学」発展の時間軸とそれが包含する領域の幅を見ることができる。本展覧会が着目するのは、「工学」という学問分野や技術史発展に、日本の近代化の文化的「構造」を読み解く手がかりを得ることができるのではないかという点である。この俯瞰的視点は、「建築博物誌/アーキテクトニカ」をテーマに常設展示を公開する小石川分館の特別展示として、「アーキテクチャ」という語を事物や事象の諸原理を束ねる概念として用いることに由来する。 
 本展覧会では、林太郎・不二・儀一の仕事から浮かび上がる、彼らのパイオニアとしての進取の精神と取り巻く人々を含めた集団としての協調の精神を「工学主義」と呼ぶことにした。本展覧会の英文タイトルに「Pio-Engineers」という造語を用いたのも、同じ理由による。
 彼らの仕事は、近代日本の国家形成の過程で、その先の未来を何十年、いや何百年単位の視座で見ていたことだろう。彼らの見ていた未来にいるはずのわれわれにとって、「工学主義」の精神は、決してナショナリスティックな意味ではなく、日本の今、そして未来を考える助けになるのではないだろうか。日本の社会を批判的かつ建設的に考察し、新たに構築していく文化的ツール。それが「工学主義」のアーキテクチャであると考えている。
 最後に、本展覧会の準備のために、田中儀一旧蔵品の寄贈者である江上光子氏には貴重な情報提供ならびに追加の寄贈資料をいただいたほか、江上綏氏には、さまざまな情報提供をいただいた。また、分館に収蔵している本資料体に関心を示し、本展覧会開催のきっかけをつくるとともに、準備を手伝ってくれた小石川分館の学生ボランティア諸君や、資料整理に参加してくれた歴代のIMT学生ボランティアおよび博物館実習生の協力なくしては、本展覧会が実現することはなかった。ここに心より感謝申し上げたい。

小石川分館特別展示『工学主義――田中林太郎・不二・儀一の仕事』
会 場:東京大学総合研究博物館小石川分館1階
会 期:2017年2月4日−5月28日
時 間:10:00−16:30(入館は16:00まで)
休館日:月・火・水曜日(いずれも祝日の場合は開館)
入館料:無料
アクセス:地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅より徒歩8分
お問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)


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図1 田中林太郎肖像写真(46歳).小川一眞撮影.
明治34年11月3日


図2 田中不二肖像写真(29歳).望月東涯撮影.
明治40年7月11日.


図3 田中儀一肖像写真(千葉鉄道第一連隊第二中隊曹長
時代・26歳頃).柴田常吉撮影.昭和4年頃.