東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime21Number3



平成29年度春季特別展示
学内発掘調査と「赤門」展

堀内秀樹(埋蔵文化財調査室/准教授)

  本展「赤門−溶姫御殿から東京大学へ」展は、2000年に行った東京大学コレクション]「加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡」、2011年に行った「弥生誌−向岡記碑をめぐって」に続く、学内の発掘調査に関連した展示である。
東京大学の本郷、駒場、小石川をはじめとするキャンパスは、旧石器時代から近代にかけての良好な遺跡の上に立地している。特に本郷キャンパスは、その全域が遺跡指定されており(文京区47本郷台遺跡群)、弥生時代の名称の契機となった土器発見地関連の遺跡として有名な「弥生二丁目遺跡」や加賀藩・水戸藩をはじめとする江戸時代の大名屋敷の遺跡が、空閑地が多い大学という環境の中で今も良好な状態で残されている。
 東京大学では1983年に創立100周年記念事業として企画された御殿下グラウンド、山上会館の整備事業など学内発掘調査に対応する組織として埋蔵文化財調査室(当時臨時遺跡調査室)を立ち上げた。本格的な発掘調査は、翌1984年から開始され、以降、調査室は全国に存在する東京大学のキャンパスの埋蔵文化財発掘調査を担当し、特に調査が多い本郷キャンパスでは現在までに本調査、試掘調査、立会調査を含めて約210件の調査を行っている。
 東京大学本郷キャンパスに残る赤門は、前田家13代斉泰に入輿した徳川11代将軍家斉の21女溶姫のために作られた約5,200坪の御殿(「御住居」のちに「御守殿」)の正門である。本来の本郷邸の奥御殿は、表御殿の奥側、現在の薬学部周辺にあった。一方、将軍の娘を迎えるにあたっては「御守殿」と呼ばれる御殿を新築することになっており、その御殿は既存の加賀藩の御殿とは別の独立した構造を呈していた。こうした御殿の建築は、本郷邸では、1708(宝永5)年6代藩主前田吉徳の正室松姫入輿以来のことであった。
 近年、情報学環・福武ホール地点、伊藤国際学術研究センター地点、アカデミックコモンズ地点(総合図書館)などの溶姫御殿が位置していた校舎の建て替えなどに伴って、複数の地点で発掘調査が行われたことで、御殿の建物やそれに付随する施設、あるいは御殿内での生活道具、食物残滓などが発見され、その具体的な様子が復元できるようになってきた。
 本展示でのトピックのいくつかを紹介したい。情報学環・福武ホール地点は、加賀藩邸の屋敷西縁部あたり、ここから確認された大型のゴミ廃棄土坑SK10は溶姫御殿の長局奥女中が使った生活道具、食物残滓などが多量に出土した。これらの遺物は、御殿が全焼する1868(明治元)年の下層に堆積していたこと、1861(文久元)年の墨書がされた陶磁器が出土していることから、御殿の廃絶以前のごく短い時間幅の中で廃棄されたことがわかった。この中に「守 セン」(図1)、「スセン」(御守殿の膳所の意味)あるいは、「御末」(位の低い奥女中)、「御三の間」(「三之間」と称する職名)などと刻書・墨書された陶磁器類が含まれ、遺物群は明らかに溶姫御殿とその女中たちの生活に伴うものと判断された。これに伴って、簪(かんざし)、笄(こうがい)、お歯黒壺、紅皿などの化粧道具、蓋付きの瀟洒な飯茶碗など女性特有の道具が多く含まれていた。このうち飯茶碗は、この時期一般的な飯茶碗より小型である点や陶磁器の飯茶碗は加賀藩邸では量が少なく、漆器を使っていたと思われるのに対して溶姫御殿では陶磁器が利用されている点などは注目される。
 食物残滓は、時代や場の食生活を知る重要な資料であり、情報学環・福武ホール地点SK10からは魚、動物の骨、貝殻類が多量に出土した。出土した魚、獣鳥骨、貝殻の分析では、他の江戸遺跡からも確認できる種で構成されること、貝類では大型ハマグリやアカガイ、ミルクイ、アワビと小型ハマグリやアサリ、シジミ、魚類ではマダイ、ヒラメからマグロやイワシなど当時、下物とされていたものも含まれていることから、江戸の流通環境の中で得られるもので料理が揃えられていたこととハレの儀礼的な場で供されたものだけでなく、女中が日常的に食したものも含まれていることなどが看取された。一方、溶姫御殿御膳所そばに構築された廃棄土坑(総合研究棟(文・経・教・社研)地点、現在の経済学研究科棟)SK110では、加賀藩邸の食文化を代表するタラの出土も見られたが、組成比が1%と低く、溶姫や溶姫付きの女中が、加賀出身ではないためと思われ、溶姫御殿の江戸嗜好が窺える資料となっている。
 アカデミックコモンズ地点は、溶姫御殿の最奥部にあった下級の女中が居住する「三ノ側長局」、「三ノ側続長局」部分の調査であった。ここでは、長局周囲の配された石組みの排水溝、井戸、便所などが検出した。これらの遺構は、1868(明治元)年におきた火災で廃棄されたことが、遺構の埋め土上部に堆積している焼土によって窺うことができる(図?2?)。便所遺構は、合計で5基が確認されたがいずれも土を掘った中に木桶を便槽として埋める構造であった。便槽内下層には白色化した便と推定される土が顕著に確認できた。この土の化学分析を行った結果、高濃度の鉛が検出され、奥女中たちが化粧に用いた白粉に含まれていた鉛の影響と推定され、奥御殿特有の様相が認められた。
 瓦は、当時の御殿のみならず、近代に入ってからの溶姫御殿や赤門の位置を示す上で興味深い情報を提供する。前述した情報学環・福武ホール地点SK110、アカデミックコモンズ地点の井戸、総合研究棟(文・経・教・社研)地点の石組みの地下室(SK107)などでは、多量の焼土と共に溶姫御殿に葺かれていた瓦が出土した。御殿の瓦は、基本的には桟瓦(断面が波形をした平瓦と丸瓦を一つにまとめた瓦)で葺かれていた。軒部分の文様は江戸近辺で生産された瓦に施される文様で占められ、また、刻印が施されたもので最も多かったものは生産地がわかる「イマド/瓦源/アサクサ」であることから、江戸付近で調達されていたことがわかる。一方、赤門は近代以降、1903(明治36)年、1925(大正14)年、1959(昭和34)年、1989(平成元)年の4回赤門の修繕が行われている。このうち昭和34年の修繕に関連する瓦が、伊藤国際学術研究センター地点SX1342から出土した。瓦には漆喰が付着した使用済み瓦と完形の未使用瓦があり、使用済み瓦には海鼠瓦、本瓦、平瓦に加え、「學」字文の鬼瓦、軒丸瓦があった(図3)。一方、ここに施された刻印をみると使用済み瓦には「京都 西彦」、未使用瓦には「奈良 瓦又」が押されている。「京都 西彦」は1938(昭和13)年に建設された東京大学の武道場「七徳堂」にも認められ、京都西本願寺、二条城など寺院、城郭にも用いられた近代の本瓦生産を行ったメーカーである。「奈良 瓦又」も同様に多くの寺社建築修繕に関わった瓦メーカーである。この修繕時に門、番所の軒丸瓦が現在の梅鉢紋に変更されたと考えられる。
 前田家は、徳川幕藩体制下の最大の大名としての社会的、経済的地位から考えるなら、武家が持つ共通の生活様式(精神的共通性、人生儀礼や生活様式)を典型的に保持していたと思われる。そうした意味では東京大学に残る徳川将軍家から入輿した溶姫御殿の赤門は、前田家と徳川家との関係を象徴的に表すものとも言える。その後、近代以降には大学の顔として、あるいは1931(昭和?6)年に国宝指定されたことにより文化財としての側面を併せ持つものへと変化する。赤門が持っていた機能や位置づけは時代と共に変化するが、こうした経緯にも時代の評価や場のニーズが大きく関係している。

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図1 「守 セン」刻書の大皿.


図2 1868(明治元)年の火災に伴う焼土と焼瓦.


図3 1959(昭和34)年の修繕に伴う瓦.