東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
東京大学 The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime23Number3



特別展示 家畜 ―愛で、育て、屠る―
「魅せる命」

展示監督 遠藤秀紀(本館教授/比較形態学・遺体科学)

 動物学者の私は、究明のメスを動物の死体に向けてきた。動物の形や中身を眺めるのが、私の仕事なのである。魅せられる相手は、ときに家畜だ。謎の多い深山山奥の希少種の類が科学的研究対象としては主役に躍り出て、人家の側にいる家畜が注目を浴びないのは、まさにその通りである。が、私の場合は、一見どこにでも暮らしていそうな家畜に視線を投じつつ、思索を続けている。
 家畜は人が創り出した命である。家畜の存在には、人間との間柄が横たわっている。人間から家畜単体を切り離したら意味が無くなるほどに、その間柄は重い。ただの鳥、ただの獣を研究するときとまったく違う探究のセンスが、そこに要求される。
 特別展示「家畜 ―愛で、育て、屠る―」は、家畜とそれを創った人間との間柄に向けられる「私の目」を床に広げたものである。巷のフロアのように、展示と称して知識の伝達をするつもりもなければ、教育と称して展示対象の説明をする意図もまったくない。ただただ、人が創った命に対して、私と私の学が日頃から抱く焦燥、命と人間の間を語り得ない矮小な家畜学者の苦悩と執着が露呈されていれば、この上なく幸いである。

合理性のいま
 まずは数の話である。3億から3億5千万という数字が見えてくる。日本で今日この瞬間に飼われているニワトリの個体数だ。この数だが、どうにも実感と結びつかない。誰が数えたのか、正確なはずはないだろうという感覚的疑義はともかくとして、畜産行政が基本に置く統計上の数字だから、国の家禽生産規模を把握した結果として、この数がある。人口のおよそ3倍。狭い国土にどう考えても多過ぎるように思われるが、実数はこのくらいなのである。3億のうち、およそ1億3千万が肉用のいわゆるブロイラー。残り1億7千万が卵を採ると書く採卵鶏だと考えて、大きな誤差は無い。
 3億はあくまでもその日に生きている個体数である。ブロイラーは当然、どんどん食肉として処理されて、流通、消費される。一年待っていると、6億から7億の肉用鶏を日本は殺して食べている。背景に成立しているのはブロイラーの短い生涯だ。
 現在の技術水準だと、ブロイラーの飼育日数は55日である。殻を破って生まれてから8週間後には、体重2〜3kgに育った成鶏が屠られ、肉に化ける。飼育日数は短ければ短いほど、飼料を中心にコストが抑えられるので、これを55日まで短縮したのは畜産技術が極限まで行きついた結果だといえる。逆にいうと、これより成長が遅いニワトリの品種も飼育設備も飼育方式も、資本主義が完全に淘汰してきた。コストで負ける飼い方は、いわゆる先進国の現代社会には成立し得ないのである(遠藤、2010)。

家畜の境界
 家畜を扱う基礎学問に育種学というものがある。学問領域は最低限の言葉を定義しないと始められないという性格があるが、長く定められてきた「家畜」の定義は、「繁殖を人為的にコントロールされている集団」というものだ。野生動物をただ生け捕りにして柵に入れただけでは、動物の飼育にはなっても、家畜として成立している状態ではない。繁殖を制御して集団を継代してこそ、家畜が成立したとする定義である。
 たとえば、イヌもブタもウシもウマもヤギもニワトリも、この定義に当てはまる家畜だ。万人にとって国語辞典的に想起される家畜たちは、確かに育種学の定義通りに確立されている。気づきにくいところでは、ハツカネズミもモルモットもキンギョもセイヨウミツバチも、細かい論点はともかくとして家畜の定義に当てはまる。学問的には、こうした集団を歴とした家畜として扱ってきた。ほとんどの場合、家畜化された集団における人為的繁殖制御とは、人間の側の意図した雌雄の掛け合わせを意味する。それはすなわち、人の目的に合わせた集団の改良である。
 この意味からは、家畜には、畜産業でいうところのもっとも一般的な家畜以外に、ペット・伴侶動物・コンパニオンのグループが存在する。イヌ、ネコや、キンギョは、いろいろな途中経過はあっただろうが、ペットとして成立している家畜である。そして“第三の家畜”とされるのが、実験動物である。マウス(ハツカネズミ)やラット(ドブネズミ)が代表例だろう。遺伝学的特性が制御され、バックグラウンドを斉一化された集団として、実験動物は確立されている。展示場で、農学生命科学研究科附属牧場で飼われていたミニブタ、ゲッチンゲン系の小ぶりな頭骨を見ることができる。ミニブタはペットとしてときどき話題になるが、元来は実験動物として作出されてきた。東京大学の牧場は昨今の財政上の困難からミニブタの繁殖を終えたが、大学での飼育の歴史を物語る標本でもある。
 さて、育種学が使う人為的繁殖コントロールという家畜化の定義は、確かに明確で便利だ。しかし、実際に野生動物を家畜化するプロセスにおいては、繁殖コントロールに成功することもあれば、失敗して動物集団を野に放棄することも起きるだろう。また生け捕りにして、飼育、改良するという一連の継続的営みにおいて、それを進める人間側の動機や価値観は複雑に変化し続けている。つまり、家畜を創ることにおいて起きてきた現象の数々は、育種学が教科書に書く定義のみを扱っていては、解明に至らないのである。
 面白いことに、家畜化されているかいないかの定義の境目にある例が、たとえばアジアゾウであり、ウミウである。アジアゾウの場合、役用が主な用途だが、古典的な戦では戦車に化けた。近代動力の無い時代に、ゾウの力は大いに人間を助けることができただろう。しかしアジアの歴史において、アジアゾウの繁殖をコントロールし、家畜としてのアジアゾウ集団を作ったかといえば、それはほぼ起きなかったといえる。あくまでも野生動物を飼って利用したという範疇に止まるのである。
 一方のウミウは日本で鵜飼に用いることで知られる。若いウミウを捕獲して鵜飼に慣らすことが伝統的に行われてきた。現在は卵を孵化させて個体を得ることも行われているが、鵜飼に合わせて遺伝学的改良を行ったかといえば、そうではない。このアジアゾウや日本のウミウが、念入りに飼育されているにもかかわらず家畜の定義に該当しない例だといえる。
 こうして見ると家畜化の実現とは、何らかの要因で、生け捕りと飼育から、継代と改良へと移るステップが家畜化を成立させるか否かの鍵となっている。先史時代の研究では、狩猟に頼った時代から飼育が開始されるまでの道筋が重視されることがあった。しかし、実際家畜成立のステップとしては、飼育そのものは容易であって、むしろそれ以降に繁殖制御と改良に成功する段階のハードルが高いと推測される。原因は難解だが、ある野生動物は単に狩猟対象で終わり、ある野生動物は単純な飼育をもって終わり、そしてある集団だけが繁殖から改良という一歩踏み込んだ人為的関わりの中に置かれることになる。それが家畜化プロセスに起こる、動物対人間の関係の明らかな変革だといえる。

原種の探索
 家畜が人為的に制御された集団である以上、もとになった野生動物集団が存在する。それを原種と呼んでいる。家畜の成立を研究するとき、原種を特定することは必須となる。
 あまりにも典型的な家畜の例にイヌがある。現代の都市では単純に伴侶動物と考えてしまうが、元来は人間の狩猟やさまざまな作業を助ける伴侶として、最古の歴史をもつ家畜である。遅れて牧畜が始まってからは、家畜の誘導や番をする役割として人間への貢献はさらに深まった。イヌの原種はオオカミであることが特定されているが、現在でも、いつどこでどのオオカミを家畜化したという論議は、まったく収束を見ていない。人類はこの時代においてもなお、この忠実な僕の由来を正確には知り得ていないのである。
 長らく論議が尽きなかったウシに関しては、過去10年ほどの間に、原種を含む系統の推移についてはかなり明確な理論化が進められている。ウシの場合、ミトコンドリアDNAを使った研究が主体である。DNAの塩基配列の共通部分を指標に行うグルーピング、いわゆるハプログループで分類し、遺跡から得られる骨のゲノムを解析すると、ウシの根源的家畜化の地域が見えてくる。それは、いわゆる肥沃な三日月地帯。近東、現在のシリアやトルコ、イラク周辺である。ウシの家畜化はおよそ10000年前。そしてこの肥沃な三日月地帯から生み出された人為的ウシ集団が、世界中に広まっていったことが、遺伝子から証明された。他方で、アジアや南米に見られる背中に瘤のあるウシ、いわゆるインド牛・ゼブーの系統は、これとはまったく別に南アジア、現在のインド付近で創出された遺伝集団であることが明らかとなった。肥沃な三日月地帯に分布した原種のウシは、オーロックスあるいは原牛と呼ばれているものである。原牛は欧州にも広く分布し、最後の個体が1627年にポーランドで死んで、絶滅している。しかし、ヨーロッパの原牛集団は家畜化にはまったく関与していないことが証明された。ヨーロッパの遺跡から出土する古い家畜ウシも、もともとは肥沃な三日月地帯で創始された家畜ウシ集団の末裔なのである。
 遺伝学的証拠から、オーロックス系とゼブー系瘤ウシは33万年前に分岐したと推測されている。推定年代の幅はあるが、オーロックス・原牛とインド牛・ゼブーのそれぞれの原種は、もともと種のレベルで異なるほど縁遠いといえる。もちろん、現在、ゼブー系の瘤ウシと近東由来のウシが交配できてしまうのは種の定義に抵触することになるが、とりあえず育種学はそのことは棚上げにして、かなりの程度まで遠い“2種”の野生ウシ科が、独立して人間による家畜化のプロセスに入ったと認識している。時代は、前述の通り、近東が10000年前だが、インドではそれより1500から2000年くらい遅れただろうと考えられている。

揺らぐ来歴
 2018年にウマのルーツも、知見が大きく揺らいだ。もともとはモウコノウマという中央アジアにかつてひろく分布していたであろうウマの集団が家畜ウマの原種だとされてきた。しかし、遺伝学的分析が、現存するモウコノウマを含むウマの諸集団に加えて、中央アジアの遺跡から出土する5000から5500年前のウマの骨のDNAを高い精度で解析することに成功した。その結果、モウコノウマは、既に家畜化プロセスを経た集団のうちの、現在の家畜ウマ集団とは少し系統の離れた生き残りであるという説が提唱されたのである。批判はあろうが、この論の説得力は一定に高い。また、これは、ウマの原種が既に絶滅して地球上に存在しないことを証明することでもある。
 過去15年ほどの間、遺跡出土獣骨からの古代DNA解析によって、考古学資料の遺伝学的位置を知ることにおいては、研究が大いに書き換えられたといえる。それは教科書レベルの記述すら書き換える大きな進展だったといえるだろう。たとえば。ウマやラクダ類で原種の絶滅が明らかにされた。ヤギやヒツジの原種集団がほぼ絞り込まれた。近東でのウシの家畜化開始と以後の世界的な遺伝子の流れが時系列的に詳述された。ブタの多起原的家畜化が確実視されるようになったなど、論議を覆す研究成果が古代DNAを扱う分子系統学的解析によって得られてきたといえる。おおどころではイヌの起源がまったくもって混迷しているが、全体として家畜系統史そのものの知見は新たな段階に入っていると考えることができる。
 だが研究が一見進歩したようで、実は、より一層深まった謎は多い。それは系統を分子遺伝学的に解明しても、家畜化そのもの、つまりや野生原種や家畜集団とそれに近接する人間たちがどういう間柄にあったか、つまり家畜化とはそもそもどういう事象であったかという根源的な謎は、系統推定とまったく別に取り残されてしまったのである。

ニワトリの起源
 さて、私の家畜研究の主題の一つにニワトリの家禽化プロセスの解明が挙げられる。私がここのところ力を入れたのは、現在のニワトリの原種の形態を追う仕事である。ニワトリの原種はセキショクヤケイ(赤色野鶏)というキジ科の野鳥である(図1)。ニワトリを知る人でも、セキショクヤケイはまず見たことがないだろう。分布地に縁の無い人間たちの間では、原種からしてニワトリは飛ばないのだろうという誤解すら普通に広まってしまう。
 セキショクヤケイはもちろん空を飛ぶ。体重が雄で900g程度、雌では600gに満たない。先のブロイラーが3kgほどであるから、似ても似つかないほど小さい。家禽のニワトリが飛ぶ能力を満たさないのは、何より体重が大き過ぎるからである。正確には、大きな体重になるように人間が育種し、栄養を過剰に与えて飼育したからである。セキショクヤケイもニワトリも、飛翔能力のある体の設計を同等に備えている。ただ家禽ニワトリは畜産業生産物として、重過ぎるほどの体の持ち主に人間が作り換えたのである。
 この原種だが、羽色が特徴的である。セキショクというのは、橙色に輝く頸部の羽毛を指している。胴体部分を占めるのは金属光沢のある暗緑色。分布地は中国南部からベトナム、ラオス、タイ、マレーシア、インドネシアへと広がる。西方では、バングラデシュやインドにも生息する。
 他方、遺伝学的検討も進んでいる。1996年に発表された秋篠宮文仁殿下のDNA分析が議論の出発点を成している。インドシナ半島のセキショクヤケイを起源に全世界のニワトリが作出されたという説であり、20年を経た現在も論題の重要な出発点である。最近の研究は、ニワトリの起源がセキショクヤケイのいくつかの分布地域からもたらされたであろうという論拠を示している。今のところ、地理的に東西二ヵ所の起源地が想定され、インドシナ半島が一つ、もう一か所はインドに結びつきそうだ、と理解されている。後者は、おそらく時代的にもインダス文明初期と関連のある、西方での家禽ニワトリの創出である。
 解剖する筆者が着目しているのは、全身骨格標本による地理的な変異の把握である。インドシナ半島からマレー半島にかけてのセキショクヤケイは地域間の違いがあまり見つかりにくく、この地域で外貌を使って古くから提唱されていた、いわゆる亜種の区分はあまり重視されなくなっている。その代わりに注目されるのは西方バングラデシュの集団である。ベトナムからバングラデシュまでを網羅した筆者の骨格探索では、形態が明瞭に識別される集団はバングラデシュのものである。これは西と東と、形が一定に異なるセキショクヤケイの二集団が、初期の家禽化に関与したことを示唆している。セキショクヤケイの初期家禽化の論点は、この東西二ヵ所での家畜化・家禽化の開始と継続という点が、今後の議論の対象となってくる。

人の心をつかむ
 展示室には大きさも形も色もさまざまな家禽ニワトリを一堂に集めた。その多くは、実は今日の畜産物として成立しているとはいい難いニワトリである。近代第一次産業としての畜産業は、もちろん生産される家畜が食糧として人々の手に渡り、生産する人間の生活が成り立ってこそ、発展する。とりわけ時代が新しくなると、そこには合理的食糧生産という社会的課題が突き付けられる。原初的には、肉が多いとか卵をよく産むとかが漠然とした評価の指標だったことは間違いないが、近現代では家禽の価値を決めるのはより多くの利潤を上げる経済性、商業性である。
 今日家畜家禽を飼育する意味は、命を生産しては消費するということをいかに市場原理に合致させて進めるかという一点に集約されてしまったといえるだろう。冒頭に述べたように、ブロイラーも採卵鶏も、極限まで合理的なニワトリの一生を前提に生産されている。先進国のインフラと気候条件などが整えば、飼育の現場は資本主義の物差しで合理化される。そこに余裕のある家禽飼育が成立する場面はきわめて少ない。商才をもって高級地鶏のようなブランドを育てるくらいが、大量速成とコストダウンに対抗できるほぼ唯一の生産作戦となろうが、それとて経済原理によってかなりの無理を強いられているのである。
 だが、私がこだわって集めてきた台上のニワトリたちの多くは、その物差しを逸脱しながら生存している。つまり、展示場の剥製の多くは、単なる畜産物としてのニワトリではないのだ。
 日本人ゆえに理解しやすいのは矮鶏(チャボ)であろう(図2)。体重500-600gにしか達することのない矮小品種は、もちろん鶏肉生産の商業的要求水準を満たさない。しかし、数多の展示個体が示すように、日本のニワトリ育種は、さまざまな羽の色を生み出した。白と黒の模様は、日本人にとってまさに目出度い色遣いである。この配色を白藤と名付け、白藤矮鶏は矮鶏の代表といわれるくらいに愛されてきた。またそこに赤の鶏冠と肉髯が付加されることが日本的美であろう。また、原種セキショクヤケイのような、体側の緑と頸部のオレンジ色を基調にした色鮮やかな配色は赤笹と呼ばれ、矮鶏の世界でも親しまれる。他方で日本の育種家は、極端な突然変異として、羽毛が逆立つ逆毛矮鶏を珍重する。
 こうした数多の剥製が見せてくれる真実は、家畜の存在価値は屠られることだけではないということである。家畜は人の心に棲みつき、心に潤いを与える伴侶として生きている。個人の伴侶であるとともに、社会全体の伴侶だともいえるだろう。無論多くの場合に、こうした家畜が帰結として食糧とされることも当然だろう。だが、家畜家禽を見れば見るほど、市場原理的畜産物という考え方は、人と家畜の間柄の些細な演出に過ぎないと思われてくる。長い間、彼らの命と人間との関係は、合理性によってではなく、はるかに奥深い心の結びつきに支えられてきたに違いない。

二頭の極小馬
 人間が家畜に向けた心は、すなわちともに暮らす動機であり、それはときに欲求であり、ときに愛と呼ばれることがあろう。家畜が人間の心を映す鏡となっているといえるのである。人間と家畜の間柄を物語る切り口に、体サイズの大小差がある。
 展示場にそれを具象として見せられるものとして、ウマの標本を用意した。世界最小のウマ品種とされるものの一つにファラベラがある。俗にポニーという言葉があって、これは小さなウマ品種に対する総称である。たとえばこのファラベラも、普通にファラベラポニーという名称で呼ばれる。要はファラベラという言葉があって初めて、小型馬のなかでもあえてこの集団を特定することができる。
 展示場のファラベラであるが、昭和54年に、当時のアルゼンチン大統領から皇太子殿下に贈られた2頭、愛称ファルーチョとガルーチョである。黒い個体がファルーチョ、明るい褐色の個体がガルーチョという名だ。皇太子殿下の三人のお子さんに、という心遣いであった。時代は昭和から平成へと移り、2頭は「天皇のウマ」として長く親しまれた。
 2頭が飼育されていたのは横浜市にある「こどもの国」である。乗馬体験教育で知られるこどもの国で35年ほど飼育され、2014年にファルーチョが、2015年にガルーチョが、老齢のため死亡した。日本に運ばれる以前の1974年に生まれたとされるため、40年以上を生きたことになる。小型馬は大型品種より一般に長寿といわれるが、それにしても大変な高齢個体だ。飼育者に大切に育てられ、天寿を全うしたといえる。博物館は貴重な品種の死体を譲って下さったこどもの国の方々に、心からの感謝を申し上げる。そして何より、ファルーチョとガルーチョの第二の生涯を、研究と教育に末永く実り多く歩ませたいと、切に願っている(図3)。
 ファラベラは由緒正しい品種といえるかもしれない。元を正せば、19世紀に南米アルゼンチンのパンパで再野生化していた比較的小さいウマの集団を起源にもつ。ウマの初期家畜化はもちろんすべてユーラシア大陸の話であるので、南米のこの小型馬の祖先は、その後人の手で新大陸に運ばれ、野に放たれた。それを指して再野生化と呼ぶのである。
 品種名は即ち、これを育種し続けたファラベラ家に依る。Juan FalabellaとJulio Cesar Falabellaの長い努力を経て、ファラベラは世界最小級の品種に育種された。ファラベラの育種はウマをできるだけ小さくするという挑戦でもあった。元来のアルゼンチン産再野生化ウマも、おそらく相当に小型だったと推測される。ファラベラ家は、それに、ウェルシュポニーやシェトランドポニー、そして南米の乗用品種クリオーリョを交配したと伝えられる。結果、積極的な育種開始から100年ほどで、体高70cmという驚くほどの小型化が実現した。1940年代にはファラベラ種の育種協会がアルゼンチンに成立し、サイズ標準なども策定されている。
 ここで興味深いのはファラベラを作り出した動機である。たとえばイギリス産ポニーの場合、天井高の低い鉱山で鉱産物の搬出労役に使うという、重要な改良の動機が育種者にあった。ファラベラが南米の鉱山での需要を見出すことはあっただろうが、事実上、このウマは、愛玩、すなわちペットとしての歴史を歩んできた。ウマの愛玩は乗用を意味するともいえるのだが、ファラベラのサイズになると、幼児以外は背に乗せることは難しくなる。当然食肉としての意義も高まらないので、この品種集団と人間との交流は、イヌやネコに類似することになり、飼うことで人間が心の潤いを得るという一点に絞られてくる。ウマは実際相当に賢く、イヌやネコと似た双方向的な心の交流を人との間に生じることができるので、愛玩の意味もウマゆえに深い。
 ともあれ、ファラベラの育種は時代的に早い。先進的といってよい。現在でこそ、多様なポニー、ミニチュアホースがペットとして広まっているが、ウマが内燃機関の役どころを演じていた時代から愛玩へ向けた育種が生起していたことは、人とウマそして人と家畜の間柄を考慮するとき、示唆に富んでいる。
 ファラベラはその後珍重され、アルゼンチンからの輸出が規制されるという時代を経過している。結局現在では他国にも広まり、日本でも見られるようになった。しかし、大雑把に”ポニー”として親しまれてきたイギリスやアメリカに由来する小型馬と比べて、まだ浸透の度合いは浅いだろう。  ファルーチョとガルーチョは、番ではなく雄二頭であるが、生涯のほとんどを「こどもの国」で飼育されたことになる。二頭が暮らした場所は展示場の動画に登場するので観て頂こう。

巨大馬の背景
 私はファラベラと対を成す巨大馬を収集している。展示場に見られるのは、輓馬、すなわち牽引により畜力を発揮してきた品種である。巨体の剥製はベルジアン(Belgian)の血を引く雄で、日本輓系種と呼ばれる。肩の高さは184cmに達し、体重は1トンを優に超える。ファラベラのファルーチョ、ガルーチョとの対比はとても興味深い。体格差を生じる家畜で知られるのは、イヌだろう。チワワとグレートデンの比較も、品種創生の結果の究極を見せるものだが、元来が畜力のために育種されてきたウマでの対比は、私が展示場で広げてみたかった世界観である。
 ウマの巨大化は、少しでも大きな畜力を獲得しようとした産業革命以前の人間の欲求の具現だ。産業革命直前で考えれば、人間個人の欲求というよりも社会のニーズとなっている。物流機能を上げるという意味で、西暦1500年以降の欧州のウマが巨大化を実現していったのは当然の帰結である。しかし、そこにはウマ特有に成立した人間側の動機も働いている。その最たるものは軍事だ。
 ウマの家畜化は5000からせいぜい6000年前で、ウシやブタ、ヤギ、ヒツジと比べれば比較的新しい時代のことであるが、早期から軍事利用が育種動機の根幹と結びついていた。広く知られるのは中国史においてだが、他国他地域でも為政者が良馬を求めて遠征するというのは政治史軍事史の一齣である。ベルジアン系のような大型品種の普及は古いものではなく、また軍備として脚光を浴びた時代も新しい。一つには鋳鉄の巨大な砲を運搬する時代を迎えてから、大型輓馬を急ぎ要したことが明らかである。ウシもウマも、多頭立ての車は、一頭立てに対して極端にけん引効率が低下する(遠藤、2019)。重量物の輸送には、一頭当たりのサイズの大きな輓馬が必要になるのである。1トンを超える巨大な軍馬が特に重用された要因は、たかだかナポレオン時代の少し前から、単体の兵器が巨大化したからだという説明も一理ある。
 展示場には、他に二頭の輓馬の頭骨を登場させた。片方はシャイヤーというイギリス由来の輓馬のものである。これは、京都競馬場で来場者を楽しませるために、馬車を牽いて親しまれたヘンリーという愛称の雄個体の標本だ。2011年に悪性腫瘍を患って死亡し、日本中央競馬会から寄贈された。国内では珍しいこの品種の骨格標本であり、博物館では輓馬の機能形態を探る基礎標本として活躍している。もう一方は、輓曳競馬で活躍して後、富山市ファミリーパークで人気者だったハヤトリキである。半血と呼ばれる日本の輓馬に見られる集団であるが、概念としてはベルジアン、ペルシュロンなどの血を引く大型輓馬だ。動物園で余生を過ごしたため、輓馬の実際の姿を教育の場で示し続けた功労者である。
 輓馬の有用性は純粋に労役という観点からは、内燃機関の登場とともに潰えたといえる。もちろんそのことは軍用馬という存在においても同様である。日本をはじめとして第二次大戦に軍馬を投入した国は少なくないが、同時期に現実的軍備、兵器としての寿命を終えていたことは確かである。
 では、輓馬なり軍馬として育種改良された集団がその後の時代をどう生きたかといえば、往々にしてスポーツやギャンブルという、広い意味での愛玩用である。サラブレッド、アラブをはじめいくつかの軽量高速の品種が競走馬として大切にされ、あるいは時代とともに消えていった。輓馬は輓曳競馬という小さいながらも愛される道を見出している。
 もちろん、精神的潤いを人々にもたらすというこれらの用途が時代の推移とともに変わることも事実である。しかし、大きな役用家畜がその後も人間との間に力強い精神的結びつきを得てきたことは間違いない。昨今の輓馬の場合、巨大な体を活用して馬肉生産における需要が高まっているという傾向もある。
 ウマが現代において競走馬、つまり往々にして賭けごとの対象として成立していることは示唆的だ。兵器の最前線にあった家畜が、瞬発的なスピードや持久力に富む走り、労役での貢献を通じて、戦場で人との精神的交流を生じることは確かだ。それが戦無き平和な社会において、心の潤い、遊興として、新たにこの家畜に投影されていったことは想像に難くない。
 家畜の特有の能力を見て楽しむ、あるいはそれをギャンブルに重ねていくことは歴史的に珍しくなく、闘牛、闘犬、闘鶏、と枚挙に暇がない。闘鶏は軍鶏(シャモ)の育種を促し、闘牛も闘犬もそれを目的にした品種創生が行われた。それぞれが多様な文化や社会の背景を背負うところを見ると、家畜と人間と遊興は、世の中での人と動物の関係の常態を見せてくれているということができる。特にウマの場合、元々戦場の家畜としての賢さと隙の無さを備えるため、競馬と人の精神世界を独特の緊張感で繋げているともいえよう。畜産物や労役、戦役に使われることは家畜の意味として分かりやすいが、実は負けず劣らず、堅固に人と動物を結びつけるのがレクリエーション、心の安楽なのであろう。

巨大牛に向けられた執着
 展示には格別大きなウシ剥製を用意した。よく知られた白黒のホルスタインである。一際大きい訳はこれが種雄だからだ。肩まで181cmという大サイズの個体である。体重は当然のように1トンを超えてくる。放場で多くの人が見慣れているミルクを出す雌とはかなり異なる大きさである。
 日本の畜産業の歴史は事実上明治維新以降になるので、まだ日は浅い。しかし、いまや極めて先進的に、およそ200万頭の乳牛を飼育し、単純にミルクを生産することにおいては、なかなかの大国である。しかし、国内で飼われているこの200万頭はほぼ全て雌だ(遠藤、2001)。雌ホルスタインは、間隔をあけずに妊娠し、分娩とともにミルクを生み出す。年間20000kgというとてつもない量の牛乳を生産することがある。妊娠は、流通している精液を用いて、人工授精によって成立している。では、雄はどこにいるのかと問えば、雌とはまったく別に飼われている。それは、既に極限まで改良され、高性能の乳牛を残すことを指標に厳しく選抜された結果としての雄親である。
 食糧の安定供給は必ずしも民間任せの課題ではなく、高質少数の雄は公的にも研究されてきた。展示場の雄ホルスタインは、独立行政法人家畜改良センターで飼育・研究されていた経歴をもつ種雄個体だ(図4)。常設展示でも活躍してきたが、あまりの大きさに拡大模型だと、しばしば誤解される。現代都市社会では多くの人が家畜の真実から切り離れてしまったため、種雄牛を見る機会が失われていることに気づかされる。当然、これはリアルに制作された剥製標本である。展示場の動画で、なめし皮の準備や内のり・芯棒の調整風景を観ることができる。剥製は、この通り雌を単に相似に拡大したものではなく、体積の大きい筋肉のつき方や精悍なシルエットなど、雄牛本来の姿を克明に伝えている。
 巨牛として、キアニーナを挙げておきたい。イタリアはトスカーナ地方特異の伝統を受け継ぐ肉牛である(図5)。俗に世界最大のウシとして語られることがあり、実際かつては肩高が2mを大幅に超える雄が飼われたことが記録に残されている。現在ではそこまで極度に大きく育てていないが、それでもウシとしてはきわめて巨大だ。また、ホルスタイン以上に男性的な肉付きをもつ。
 キアニーナのリアリティは、頸部の皺や、肋骨の凹凸、骨盤の盛り上がりなどに示される。極めつきは腹部のシルエットである。このウシは単に大きいだけでなく、四肢が長く、腹部のラインが地面からかなり高い位置にあることがよく分かる。外部形状からしても、とても特徴的なウシなのである。皮膚のラインに見られるこうした特徴は、高度な皮なめし技量と、かたどり技術の結晶である。
 こうして見ると、キアニーナは日本人が普通に想起するウシとは大きく異なっているのではないだろうか。日本のウシとはもっと小さく、国の農村風土との間に融け込むものだと感じられる。特異な外観や、異様なサイズ、精悍な風貌はもちろんキアニーナが譲ることのないアイデンティティである。と同時に、このウシの醸し出す雰囲気や背後に控えるトスカーナの農村の民俗と伝統が、日本人に異国情緒を感じさせるのだろう。
 キアニーナは特筆すべき歴史をもっている。このタイプのウシはおよそ2500年前のエトルリア時代からイタリア地方で飼われていたとされ、現存する最古のウシ品種だという話題に登るのである。また、絶滅したウシの原種、いわゆるオーロックス・原牛と形態が類似するという意見もある。交配によりオーロックスの見た目を復元しようかという試みが為される場合、掛け合わせの元として注目される品種である。しかし、オーロックスに近似するとか、エトルリア時代やローマ時代のウシと同じであるという主張は正しくはあるまい。イタリアのウシ品種は世界的にも特異な遺伝学的背景をもち、特殊性は明らかである。もちろん古くからイタリア付近で飼われたウシの末裔であることも確かだろう。が、形や色がエトルリア時代から変化のないままだと考えるのは早計に過ぎよう。それよりもキアニーナを面白くする鍵は、それが、トスカーナ地方の人と農村、自然と文化に結びついたウシであるという点である。

合理主義を越えて
 ニワトリの項で触れたが、人は合理性のみで、家畜と結びついている訳ではない。キアニーナの巨体は、かつては役牛としても重要視され、それとともに、地域の食文化との間に密接な伝統的関係を築いたと考えられる。役牛の時代を終えてからは、トスカーナの農村にとっては、このウシが食を通じて地域の人々の誇りと結びついてきたことが明らかである
 グローバルな合理主義が地域性を破壊に追い込むとするなら、キアニーナはより一般的なウシに置き換わるであろう。世界を席巻する肉牛に、ヘレフォードやアバディーン・アンガスといった品種があることは日本人でも耳にすると思うが、こうした一般的な肉牛と比べると、キアニーナは成長が遅いだろう。つまり経営的には不利なはずである。また人工授精による改良などもってのほかとされ、今日でも種牛と多数の繁殖雌を同一牧場で飼育し、例外なく交尾によって子を産ませている。当然だが選抜改良の程度は緩い。もちろんキアニーナの肉を高級牛肉として価値を維持し、ブランド化することは行われてきたが、現代日本人が考える畜産動物の産業的扱いとはかなり異なる穏やかさが全体に浸透している感触を受ける。日本の和牛と比べて、出荷までに1.5倍くらいの長期間の飼育が行われ、飼育にはコストが要求される。こうしたことには、「トスカーナの農村の心は、キアニーナを抜きにしては語ることができない」という、イタリアのこの地域の“土の誇り”が感じられるのである。
 トスカーナで古い農家を訪ねると、まるで額縁に収まりそうな小ぢんまりした丘陵地に、小規模な飼育農家を見ることができる。農家の家族は、記録に残る範囲で何百年も前から、その地でキアニーナを飼い続けている。ある農家で近隣農家との縁組みの記録を見せて頂いたことがあるが、人間の家系・血縁図とともに、かつて飼われたキアニーナの血統を示す古資料を見ることができた。個体の愛称とともに、いつどのウシ個体をどこの農家から導入したかという、ウシの来歴が家族の大切な足跡として残されるのである。さらに、たとえば学校教育と結びつき、ウシと地域の伝統を次の世代に教育することに力が注がれている。キアニーナに関する農業誌の伝承は、私には日本流の町おこしよりもより力強く見える。キアニーナの獣舎や農器具を大切に保存し、一部を博物館的資料として受け継ごうという営みにも接することができる。
 村おこし町おこしというと、営利目的や公務員叩きの空気すら漂い均質化してしまう日本とは異なる健全な人と文化の長期的関係づくりだと受けとめられ、またその関係に家畜の命が深く根差すところにキアニーナの本質を見ることができると、私は受け止めている。キアニーナとトスカーナの人とを結ぶ土の誇りは、家畜の存在意義を揺るぎなく語る力強さにあふれている。
 キアニーナをはじめとして、欧州には、大きさ世界一を競おうかという巨牛が育まれてきた。しかし、彼らが真に訴えかけてくるのは、ただのサイズの話ではない。人間がどう家畜と心を通わせるか、そして、どのようにともに時代を生きていくかということを、改めて我々に語ってみせているといえるだろう。
 こうした特定の品種との地域の深い結びつきは、他のヨーロッパの古い家畜にもしばしば見られる。トスカーナを一歩北に出て同じイタリアのピエモンテ地方に入ると、その名もピエモンテという別の品種のウシしか見られなくなる。また少し東に向かってハンガリーに入れば、マジャール・スルケ、つまりはハンガリー灰色牛の世界となる(図6)。遠目には似ていてもウシのアイデンティティは明確に異なる。何より、それぞれの地域でウシを取り巻く人々の考え方も価値観も、そして村も社会もまったく異なるのである。

ニワトリへの愛
 先に日本人がニワトリに込めた精神性について、矮鶏を例にしてふれた。矮鶏への愛は、まったくといっていいほど合理主義的畜産物というものと共通点をもち得ない。
 ここで、展示室でも一際異質な、オナガドリを採り上げておこう。長尾鶏(チョウビケイ)とも呼ばれるこの品種は、尾羽が生え換わらずに伸び続けるという突然変異の帰結である。尾羽は、江戸期には、育種した土佐山内藩の秘宝とされ、参勤交代の行列を彩る槍鞘飾りに用いられた。江戸期のものはまだ短かったと考えられるが、大正・昭和期にとりわけ長い個体が選抜されて、7m、10mといったものが見られるようになった。専用の飼育箱を用いて、一種の趣味愛鶏の世界が形作られている。長尾鶏は世界的にも特異で、海外から日本独自の愛玩鶏として注目される品種である。
 ニワトリにこうした思いを投じることは東西を問わない。世界中の人々が目指した分かりやすい育種の動機が、世界一大きなニワトリを我が物にしよういうものだ。インドネシアにアヤム・プルーンという巨大なニワトリが飼われてきた。体重10kgを超えると飼い主は豪語するが、私自身は7kgまでの個体しか見たことはない。自慢話の一種ととらえておいてよいかもしれないが、明瞭な背景もまた示してくれる。経営的に急速な成長と短期の出荷を目指したブロイラーは、体重でいえばせいぜい3kg程度でしかない。飼料を投じて効率よく肉が増えるのが、3kgまでなのである。7kgや10kgという体重は、いくらでも長く飼っていれば脂肪が付いて重くなるという、合理的成長とは無関係の道のりである。実際もし10kgのニワトリができたとしても、そこに至るまでの飼育期間は長く、とても畜産業的に折り合う時間ではない。遺伝学的改良育種が家畜のサイズを変える術になっていることは当然だが、ニワトリという動物種にとって実現しやすいサイズは、5kgを少し超えるところまでだといえる。
 展示場で、周囲より際立って背が高いのは、インディオ・ギガンテだ(図7)。これは南米ブラジル産の巨大品種である。体重の指標も面白いが、インディオ・ギガンテは改良において高さも重視された。体高1mを狙う価値観である。重いとともに精悍で背の高いニワトリを手に入れたいという気持が働くのだろう。
 比較的小型の動物ゆえか、ニワトリが実現したことに、奇妙な外貌という切り口がある。展示にはアヤム・チェマニ、ウコッケイ、ガー・トレ、ガー・アック、そしてドンタオを並べてみた。いずれも資本主義的価値の通用しない命の姿である。アヤム・チェマニは黒い。インドネシアに産するが、その育種動機は黒いニワトリに向けられるインドネシア人の尊敬の念だろう。イスラム教の地域で実際飼われるが、調査を進めていくと、黒い体色は、イスラムのような規模の大きな宗教・信仰とは一致するものではないことが分かってきた。むしろ地域伝承に近い話かもしれない。インドネシアを含む東南アジア地域では、ニワトリの色として黒が好まれるという一般論も指摘されたことがある。黒のニワトリを飼い、食べることで健康が維持され、村落も幸福であるという思いが成り立っているのだ。もちろんそこに科学的な裏付けは必要ない世界なのである。
 滋養という価値観では烏骨鶏(ウコッケイ)も知られる。現代日本では高価に販売されて、付加価値の獲得に成功している。元々中国産のこのニワトリは、白い絹状の奇妙な羽毛と、色素の沈着した黒い皮膚や筋肉、骨格が関心を惹く。調理の場で、この黒色が珍重されるのである。
 ガー・トレ、ガー・アックの2品種は、よく似た超小型品種である。日本の矮鶏と並んで世界でも最小クラスのニワトリである。インディオ・ギガンテの10分の1以下、500gほどで成鶏となる。矮鶏の例で考えればペットという意義が想定されるが、ベトナムで大切にされるこの品種は愛玩というより薬膳に近い価値を見出されている。通常の鶏肉と異なって、市場でかなり高額で売られているところを目にする。漢方薬や東洋医学というほど“医”の雰囲気はないが、健康な暮らしへの想いが定着している品種だろう。
 極論はドンタオに見られるかもしれない(図8)。北ベトナムに産するこの品種の異質さは際立っている。太い脚が奇怪だ。脚部の重さは体に負担をかける。成長がとても遅く、鶏肉の国際的コストと闘える面はまったくない。だが、ベトナム人は昔からこの品種を大切に飼育し続けている。かつては為政者、権力者への貢物として重要視されたといわれる。ベトナム戦争時は、戦乱の中にあってもドンタオを家宝のように担いで逃げた逸話を現地調査で聴くことができた。時移り、今では自由経済化著しい同国の村おこしにおいて、地域の資源としての扱いが高まっている。しかし、この品種の食肉生産には合理性が無い。それでもベトナム人はドンタオを愛し続けている。市場原理の物差しは後から付いてきているのであって、ベトナムの村では、まず風景にドンタオありきなのである。先にキアニーナで垣間見た、とある地域における家畜と人間の合理的に説明され得ない間柄は、執着と呼んでもよいくらいに強い。品種を変え、国を変え、人々の価値観や社会体制が異なるところで、人と家畜の心の結びつきは同じように強固だ。ドンタオはそのことをインドシナ半島のとある地域で証明してみせる。
 脚が太くなるドンタオの形態形質は、ベトナム人にとりわけ大切にされてきたようだ。最初は突然変異として抽出されて掛け合わされた特徴だろうが、おそらくはユーモラスに見える歩き方も含めて、愛着を獲得し、維持されていったのであろう。推察ではあるが、それがいつの間にか、薬膳、健康増進という物語を派生したに違いない。現実の医学的効能が問われることはない。物語が健康への願いにふれるとき、かの鶏肉を囲む食卓が個人や社会の精神的幸福と結びつくのに、長い時間を要さないだろう。ドンタオもガー・トレもガー・アックもウコッケイもアヤム・チェマニも、飼う人間の心の視点で見たとき、構図はよく似ている。ニワトリは客観的理屈をもたずとも、人々の愛を独占するのだ。

家畜の始まり
 さて、家畜とは、そもそもどのように始まるのであろうか。標本による家畜化の具象を試みてみた。それが展示の冒頭に骨格で出会うことのできる、ブタである。後方に連なる骨格群は、ブタの陰に消えてきた“山の恵み”たちの骸の山だ。
 人間は、たとえば、シカを、イノシシを、ゾウを、カバを狩猟してきた。それは家畜化の前段階に人々が営んだ暮らしである。頭脳的狩猟は人類のアイデンティティといえる営みでもあり、ホモ・サピエンスの登場を待つまでもなく、化石人類段階で狩猟技術は相当高まっていたと推察される。また、狩猟すら必要もなく、死んでいく大きな動物の死体を拾うのは、胃袋を満たそうとする人類の智恵であったろう。
 人間があまたの動物の肉を手にしたとしても、結果的に家畜となり得た動物種はとても少ない。一握りに過ぎないとさえいえる。それでも、これら狩猟捕獲や死体拾いを通じた命のやりとりから、次第に人間は生け捕りにした動物から家畜を創り、互いの関係を築いていったといえる。
 こうした家畜創生より以前から、人間の前に現れていた動物たちをいくつか語っておきたい。展示場の骨で多くの数を占めるのが、イノシシである。これらは1970年代に日本の幅広い分布地で捕獲されたものである。収集者は、国立科学博物館館長の林 良博博士だ。イノシシは今からおよそ8000年から10000年近く前に最初期の家畜化を経過したと考えられ、以後も旧世界の多地域で、独立して何度も家畜化されたと推測することができる。家畜としての帰結はもちろん誰もが知るブタである。家畜に至る間に起こした顕著な形の変化は、骨格標本を対比することで見ることができる。サイズの大型化も生じただろうが、顔面・鼻部が短くなり、額に相当する部分が大きく広がった。
 一方、ニホンジカも複数の頭骨が展示されている。ニホンジカは家畜化されることがついに無かった。ニホンジカに限らずシカ類において家畜化はあまり進まなかった。トナカイが一部地域で家畜として繁殖をコントロールされ、他にも何種かが飼育されたが、イノシシ・ブタのラインのようには、普遍的な人間との間柄が成立することは無かった。
 何が両者の運命を分けたかは謎に満ちている。イノシシ・ブタ系で見るならば、多産や早熟、高成長率などを通じて、食糧生産に向けた改良に期待が高まるだろう。また、家畜には、おとなしい性格で人に慣れやすい、馴化が容易だといった属性が必須である。野生状態で厳格に過ぎる群れ社会の生態を示す種も、家畜化には向かないだろう。例えば多くの種のシカでは、雄どうしが繁殖をめぐって激しく闘争し、交尾をめぐる順位が決定される。動物としてのこうした社会構造の複雑さが、シカ類の繁殖制御を難しくし、イノシシの方が人為下での繁殖に向いていたという可能性もある。あるいはもっと単純には、人間側の要因で初期家畜化の場が近東やインド、インドシナから中国にかけての地域に偏ったことに対して、当該地近くに家畜資源として有望なシカ類が分布していなかったと考えられるのかもしれない。
 家畜化の成否を決める要因の究明は難しいが、家畜への道を歩みつつあった野生動物が家畜化に馴染まなかった例が、無数にあることになる。ゾウ、サイ、カバ、キリン、シカ類の多くは、家畜化から外れた動物たちとして野山に生き続けている。また、キジ、ヤマドリの類は、家禽化とは縁が無い。同じキジ科に、ニワトリの元となった東南アジアのセキショクヤケイが属すが、多様に進化したキジ科でもセキショクヤケイ以外は家禽としての貢献は乏しいのだ。カモのなかまを見ると、マガモがアヒルへの家禽化に成功するが、それ以外の多数の種は、家禽化との関連は薄い。二つの運命を分ける要因は、未だ明らかになっていない。

動力としての家畜
 先にウマの大型化にふれた。関連して畜力というものを考えておきたい。近代日本に暮らすとまったく縁が生じないが、途上国では畜力に頼る輸送は現役のものである(図9)。当然、内燃動力の無かった時代には、重い物や大量の物を移動する運搬・輸送力を、人類は家畜に依存していた。体サイズと力の大きさからも、必然的にウマとウシが重視されたといえる。ウシ以外にも、他のウシ科の大型獣、ヤク、ガウル、バンテン、アジアスイギュウなどの家畜化集団が畜力に貢献してきた(遠藤、2001)。内燃機関なら、工学的にスペック項目が登場することになるが、そもそも家畜の出力性能とはどの程度のものなのだろうか。
 実際にウシやウマの畜力が現在研究されることはあまりなく、また大型動物ゆえに斉一化された背景でそれが定量化されにくいという研究の難しさも立ちはだかる。その中で精度は低いが、ウシの労役は定量的に研究されてきた(遠藤、2019)。
 ウシは自身の体重の8分の1の車を、毎日10時間程度牽き続けるのが妥当な労役条件だとされる。体重560kgのウシは70kgの車を“普通の労役”として一日中こなすという意味である。普通の労役というのは大雑把な言葉だが、ウシが安定的な走行速度で牽引しながら適度な頻度で休むという状況を指している。この目安は、ウマの場合には体重の6〜9分の1、ロバの場合には4〜7分の1として換算されてきた。役用家畜に対する妥当な負荷を設定する物流現場の知恵である。もちろん、一時的で低頻度の牽き出しでよければ、より大きな重さの車を起動することは可能だ。
 我が国で記録に克明に残る例として、旧東海道大津における近世の米輸送が挙げられる。安定した徳川政権の下、当時世界最高水準の交通運輸行政が機能した東海道では、一頭牽きの牛車で半俵9俵が間断なく京の都に運びこまれていた。一俵が60kgくらいであろうから、車重を除いて540kgの牽引を繰り返していたことになる。普通に考えられる以上の高負荷を担っていたといえるかもしれない。路面は車石を敷き詰めて舗装され、時間帯ごとに一方向の交互通行を規定、人道と分離するなどの高度な交通規則が運用されていた(図10)。その結果、1700年代後半で年間15000両を超える牛車が往来し、大量の米が琵琶湖岸大津から京へ搬入されていたのである。
 この江戸期の京への米輸送は畜力の組織的運用としては極度な発展を見たものであり、畜力を単に家畜単体で与えるだけでなく、社会を支える仕組みとして理解できる例として示唆に富む。一方西欧ではこれほど高密度な運輸統治でなくとも、多頭立ての牛車・馬車が発達していた。産業革命直前の最大級の例として、20頭立ての超大型馬車が荷重10トンを超える都市間輸送を担っていたことが知られている。畜力というのは、化石燃料が使えなかった時代には、ここまで質的量的に発展していたという、技術史の興味深い一齣を見せている。
 私は、近代化によって消えつつある搾糖機を、インドシナの途上国で見てきた(図11)。展示では、畜力の例として、ウマでこうした搾糖機を動かす映像を公開している。撮影に協力下さったのは「沖縄こどもの国」である。活躍するのは日本在来の小型の品種、与那国馬だ。同動物園では、沖縄での伝統的な家畜と農村の関係を保存、伝承、復元していくことに力を入れている。明治期の洋種導入以前から飼われる日本在来家畜を飼育保存し、加えて農耕や搾糖のような伝統的農作業を生きた家畜ごと保存する試みを続けている。
 搾糖機は、家畜が回す車によってサトウキビを潰して糖を絞る機具である。畜力というと鋤による耕作があまりにも普通だが、サトウキビの栽培地域では搾糖機も畜力が見られる典型例である。搾糖機は地域や時代によって系譜が類型化でき、民俗学や地域研究において重要な研究対象となっている。今回、沖縄こどもの国のご協力を頂いて実際に運転し、その様子を記録することができた。

家畜と人間の未来
 こうして見ると、家畜の存在は人間の心との結びつきによって、初めて成立するものだと確信される。それゆえ、家畜は、個人の価値観、社会の有り様、技術の水準など、人間の基本的な営みによって、日々その位置付けを揺り動かされているといえるだろう。家畜は生物であり命でありながら、学問的に単純な動物学の対象としてはとても収まり切れない存在であることが見えてくる。家畜は身近な心の存在であるとともに、一筋縄では理解し得ない、学者にとっての難敵である。ゆえに、とりあえず呻吟する「私の目」を展示場で曝してみることにした。家畜をめぐる私の旅はこれからも続く。

参考文献
遠藤秀紀.2001.ウシの動物学. 東京大学出版会.
遠藤秀紀.2010.ニワトリ 愛を独り占めにした鳥.光文社.
遠藤秀紀.2019.牛車の博物誌(仮題).印刷準備中.

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図1 セキショクヤケイの雄.調査地のラオスにて.
図2 さまざまな外貌の矮鶏.剥製標本.左から二番
目が逆毛矮鶏.右から二番目が白藤.一番右が赤笹
である.撮影:上野則宏氏.

図3 ファルーチョ(左)とガルーチョ(右)の皮な
めしの出来栄えを確認する筆者.剥製制作中の様子.

図4 ホルスタインのなめし皮.普通に知られる乳
牛 よりはるかに大きいのは、滅多に人目にふれない
雄だからである.この状態から剥製標本を組み上げる.

図5 トスカーナの誇り、巨牛キアニーナ.現地農家
で種雄を計測する筆者.

図6 ハンガリー灰色牛、マジャール・スルケ.欧州
には多様な在来品種が生き続けている.

図7 インディオ・ギガンテ.世界最大サイズを目指
して育種されるブラジルのニワトリ.サンパウロ大学
動物学博物館にて

図8 ドンタオ.ベトナムの在来鶏である.脚部が
異様に太い.この形質に経済的合理性は無い.ベト
ナム北部 の農村にて.

図9 二頭立ての瘤ウシに牽かれる牛車.現在も途上
国の物流の基本である.マダガスカル北部の農村
にて.

図10 昭和8年の東海道改修工事時に、残された車石を利用して建てられた記念碑の台座.牛車の車輪を
通す轍が見える.京都市内にて.

図11 搾糖機.ラオスで収集された学術資料.畜力
で回転させ、サトウキビを潰して、砂糖を得る.
2010年東京大学総合研究博物館海外モバイル展
「ラオス―農の技」より. 協力:園江 満博士.