IMT特別展示
「アートか、サイエンスか―知られざる四高遺産から」より
関岡裕之(本館インターメディアテク寄付研究部門 特任准教授/博物館デザイン)
本展示は「インターメディアテク博物誌シリーズ」の3回目として開催することとなった(図1)。今回は、金沢大学資料館、石川県立自然史資料館の両館に分蔵されている、「四高」こと旧制第四高等学校(金沢大学の主たる前身校)に由来する教育用物理実験機器類である。他にも「三高」の京都大学、「一高」の東京大学と、当時の機器は保存されているものの、四高の遺産は国内最大級のコレクションである。そのなかから、学術的かつ造形物として興味深い機器50点を選定し、東京大学駒場博物館が所蔵する3点を加えた。
物理という多様な世界は、学問であり研究であり、そして現実である。われわれはその現実のなかに存在していながらその「仕組み」を認識できないでいる。名の知られるところで、「万有引力」のアイザック・ニュートン(1643-1727)、「フーコーの振り子」のレオン・フーコー(1819-1868)、「X線」のヴィルヘルム・レントゲン(1845-1923)、「相対性理論」のアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)など、その名が法則や単位になることも少なくない。記憶に新しいところでは「ニュートリノ」の小柴昌俊東京大学名誉教授など、永い年月の研究と時に偶然から生み出された発見は、見ることのできない事実を現象化し、その謎を証明してみせた。物理学の発展とはまさに社会の革新と同軸上にあり、時に兵器への転換といった負の記憶があるにせよ、今日の繁栄に寄与していることはいうまでもない。
これらの実験機器(図2、3)は、無論、美術品でも工芸品でもない。また、その純粋なまでの佇まいは、生物的な存在論でもなく超常現象でもない。いわば必然と現実を映しだす鏡のようである。であるからこそ創造的で感情的な美意識を得ることができる。事実、その原理と構造に触発された芸術家は少なくない。アートがおよそ自然や現実からの「気づき」であるならば、これらの作為のない造形もまた刺激的な素材たりうるからである。キュビズムにおける歴史的な事例も多いが、「超現実」として表現するシュールレアリストやダダイストたちの作品に顕著であるように、マルセル・デュシャン(1887-1968)は数学や物理学の原理を用いた「移行、変化、移動、距離」を興味対象に創作している。また、ハンス・リヒター(1888-1976)、マン・レイ(1890-1976)、ロバート・ブレア(1926-2011)らは機械あるいは現象の動きの実験映像を、ジョン・ホイットニー(1917-1995)は光学的な現象をモチーフにしたアニメーションを制作している。前述したように産業革命以降の機械化による劇的な社会変化は、科学の進歩によって裏付けられたものにほかならない。芸術家はそれを肯定的に受け入れようとした。バウハウスで教鞭をとっていたオスカー・シュレンマー(1888-1943)の画期的なエルゴノミクス(人間工学)は、人体を物理的な原理から解体しデザインへと還元した。その一方で『トリアディック・バレエ』に見られる独創的な舞台において、幾何学形のコスチュームを纏ったロボットのような人間は、機械の動きを人体に同化させることによって、「動き」に対する構造と機能の類似性を解いている。
それは芸術家による観念的に昇華された「作品」いうベクトルだとしても、飽くなき研究と実験の精神は、科学者も芸術家も同じ世界観なのではないか。そこには崇高な芸術志向と相反する社会への否定的な示唆もあるであろう。それらも含めて、有機と無機、自然と科学、空想と現実、現在と未来といった人間と対峙する対象に欠くことはない。科学と芸術の関係は、近年、それを担う科学者とアーティストによるオープンエンドな取り組みとして盛んに行われるようになった。両者が同じ価値観と創造性を共有し、さらなる社会への認知と還元への取り組みは、単なるコラボレーションの枠のこえたオルタナティブ教育としての意義を見出そうとしている。
改めて今回の展示物と展示デザインに目を向けてみるなら、機器には、当時の最先端の技術を備えたドイツ、フランス、アメリカ製などの舶来品がある。文部省が交付したいわゆるオリジナルである。これらの高価であった機器の財政負担の軽減と普及のために、国内の数社によって模造が始まった。全てがコピーできたわけではないにせよ日本の物理学と技術発展に大きく貢献したのだ。そこには職人たちの試行錯誤と創意工夫、平たく言えば職人魂があったに違いない。なぜなら、教育用実験機器である限り、その成果が得られなければガラクタでしかない。言ってみれば、解のある方程式の公式を「製作」するようなものである。
一方、その技量が別のベクトルを示したものが工芸や美術であり、ガラクタさえも意味を与えればアートになるのだ。そして、その中間には何があるだろうか。中間といっても分類上ではなく融合として。少なからず展示デザインはその部分に接触する。三角形の展示ケースに入れられた三角プリズム、旧式のエレベータ内に置かれた電話機、職人魂を魅せるには時に遊び心も必要である。人間はモノや構図を5分以上見なければ詳細に記憶できないらしい。深い洞察をもって見なければ、いずれの価値をも見い出すことはない。およそ質感や色彩、モノのフォルムと展示造作とを対比させるのが展示デザインの常套手段であるなら、確かにこれらが真白い空間に置かれていれば、それだけで美しい展示であろうことは容易に想像できる。しかしあえて逆手にとった。モノを構成しているのは、いわゆる鉄、ガラス、木材といった素朴な素材であるのに加えて、人の手といくつもの時代を経た「ほこり」をまとっている。当時の高価で貴重な教材に、多くの学生は食い入るような眼差しで実験を見守ったであろう。故に哀愁を醸し出している。そこには本物の時間が血液のように流れているのである。それと同調するように錆びた鉄枠の台座、ガラス板、飴色の壁面が空間を構成する。当時、文化祭があったとすれば、資金も資材もない学生たちは、こんな展示をしたのではなかろうか。そんな後味が残ればよいと思う。
最後に本展の開催にあたっては、多くの機関、団体、個人の支援、協力を賜った。とりわけ、金沢大学資料館長奥野正幸、石川県立自然史資料館長中村浩二、日本物理学会物理学史資料委員会委員永平幸雄、金沢大学資料館笠原健司、同大総合メディア基盤センター高田良宏、東京大学大学院総合文化研究科岡本拓司、同大駒場博物館折茂克哉、合同会社AMANE 堀井洋、加えて、関連講演会にご登壇いただいた前ノーベル博物館館長スヴァンテ・リンドクヴィスト各氏に心より御礼を申し上げたい。
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