スクール・モバイルミュージアム
昆虫の形と色の不思議
―オサムシ研究の巨匠・石川良輔博士の軌跡―
矢後勝也(本館助教/昆虫自然史学・保全生物学)
遠藤秀紀(本館教授/比較形態学・遺体科学)
東京大学総合研究博物館は、2013年から文京区教育センターとの連携でスクール・モバイルミュージアム事業をこれまで推進してきた。本事業は当博物館ならではの展示等を通じて、特に子供達に向けて科学への興味を芽生えさせたり、教科書では得られない学習効果に繋げたりすることを目的として展開してきたプロジェクトである。元号が令和に代わって最初のスクール・モバイルミュージアム展となる「昆虫の形と色の不思議 ―オサムシ研究の巨匠・石川良輔博士の軌跡―」は、2019年5月25日〜10月5日の約4ヶ月間の日程で、文京区教育センターの2階大学連携事業室にて開催されている。
東京都立大学名誉教授である石川良輔博士は、研究の初期にハチ類の系統分類学的研究に携わり、やがてオサムシの系統分類や種分化の研究に邁進した著名な昆虫学者である。自家用車で日本中を隅々まで走り回り、昆虫の種分化や地理的変異を調べ上げ、多くの新種や新亜種を記載し、やがてオサムシの形や色の進化を極めた巨匠としても知られる。同博士によって収集された昆虫コレクションは、インロウ箱約1,000箱に収められた8万頭を超えるオサムシ類標本(一部ハチ類)が主体である。このうちの約半数が昨年から今春にかけて東京大学総合研究博物館に寄贈され、今年中に残りの標本も本館へ収納される予定である。
この寄贈標本を用いた今回の展示は、約12m×8mの床スペース(大学連携事業室)に約5,000点の昆虫標本を出展しながら石川博士の経歴や研究史を紹介するとともに、オサムシの形の面白さや色の美しさを分かりやすく伝えることを狙いとした。入口(図1)を進んですぐ右側の壁面には、「はじめに」として本展示の挨拶・謝辞文を掲載し、続いて「石川博士の経歴」として同博士の職歴や業績、代表的な著作、コレクション寄贈の経緯などを紹介した。その隣では、「オサムシとは ─地面を歩く甲虫─」の表題でオサムシの前翅(鞘翅)にある凸凹や金属光沢(図2)、さらに各種で異なる食性(陸貝食やミミズ食など)に適応した大顎などの形態的特徴および夜行性や歩行性などの生態的特性を概説した。その他にオサムシの語源となる機織り機のおさ(梭・筬)の実物を展示した。
次に、「採集方法と記録、論文」としてオサムシの採集から論文発表に至るまでの行程を紹介した。石川博士が所有する実物の採集道具や記録帳、発表論文を並べるとともに、同博士自身が採集道具の一つと称するGPS搭載の自家用車で走行した詳細な軌跡や採集地点を反映した2万5千分の1地形図(群馬県前橋周辺域)を額に入れて壁に掲示した。また、底に餌(さなぎ粉)を入れたプラスチックコップを埋めて採集するピットホールトラップを実寸の模型で再現した。これは展示副指揮を担当した井上暁生による力作で、トラップのコップを上から覗くと人感センサーが反応してコップ内のライトが点灯し、中に落ちているオサムシ(マイマイカブリの模型)が見られる仕組みとなっている。
通路を左に折れると、右側壁面は展示場全体の正面奥に当たる(図1)。ここでは 「オサムシの多様性」と題して、右側に外国産の美麗オサムシ類、左側にオオルリオサムシを主とした日本産美麗オサムシ類の標本を壁一面に展開して迫力ある展示を披露した。この左右間の中心には映像機器を設置し、かつて石川先生が出演されたオサムシ研究に関する番組を上映した。
さらに通路突き当たりを左折した右側壁面(入口から見て左側壁面)では、石川博士の代表的な研究成果として4つのコーナーを設けた(図1)。手前から順に「地理的変異 ─地形に阻まれ分化していく集団─」のパートでは、キタクロナガオサムシの雄交尾器やオオルリオサムシの前翅の地理的変異の図を掲載し、実物の標本も展示しながら地理的変異の概要を説明した。次に「オサムシの種分化 ─新たな生物種の誕生─」のパートでは、アオオサムシ種群やコブスジオサムシ属を例に、地理的障壁から分化した集団がやがて生殖的隔離に直接関わる交尾器の形に変化をもたらすことで種が形成されていくプロセスを概説した。続く「オサムシの系統と進化 ─形と色の小進化と大進化─」のパートでは、房総半島南部で見られる赤色のアオオサムシ変異型(アカオサムシ)を例に挙げて同種内で生じる小規模な進化段階を示す「小進化」と、オサムシ亜族の分子系統樹の結果を用いながら種以上の飛躍的な進化段階を表す「大進化」を実物標本とともに説明した。4つ目の「美しいハチ類 ─セイボウとノサップマルハナバチ─」のコーナーでは、かつて行っていた石川博士のハチ類研究を紹介した。多くのセイボウ類は緑色の美麗な金属光沢を放ち、このザラザラ感のある金属色はオサムシの体色(図2)と類似するが、石川博士が両分類群を研究されたきっかけは、この体色に魅了されたためであるという。ノサップマルハナバチは、1953年に北海道根室半島の先端にあるノサップ岬での調査で、石川先生が偶然発見された大型珍種のマルハナバチである。
出入口に近い廊下側の壁面では、石川博士の代名詞とも言える「交尾器による種のちがい ─オサムシを分ける錠と鍵─」のコーナーを据えて、博士が1960年に新種発表したドウキョウオサムシとその近似種ヤコンオサムシとの交尾器や前翅の違いを双眼実体顕微鏡で観察できるようにした。標題にある錠と鍵とは、雄交尾器を鍵に、雌交尾器を鍵穴(錠)に見立てたもので、同種間では雌雄交尾器が対応することに加え、各種により独特な形や長さをしているために、別種同士だと鍵と鍵穴の関係のようにうまく交尾できない構造となっている。この展示に隣接した出入口に近い位置には、石川博士の著作物を本棚に並べ、座りながら自由に閲覧できるスペースを確保した。当館から出版された昆虫関係の標本資料報告や展示図録も配置して、研究発信の場としての機能も果たすようにした。
展示室の中央部には、石川博士により記載された新種・新亜種のタイプ標本を連ねた標本箱をアクリル展示ケースに収納して展示した(図1)。タイプ標本とは新称の学名を付けるにあたり、その基準として指定される個体で、分類学において最も重要な標本である。無論、本展示最大の見どころと言える。この展示ケースには、石川コレクションの一部を成す唐沢安美氏によるオオルリオサムシの亜種内・亜種間の交配実験結果を表す標本や実験ノートなど、亜種分化や種分化に至る過程を考える上で学術的価値の高い資料も平置きしている。
さらに中央部の展示品を挟み込むように、両側には2つずつの島を設けて著しい地理的変異を示す日本固有のマイマイカブリやアイヌキンオサムシ、さらには海外のカブリモドキ類やアカガネオサムシ、セアカオサムシなどの標本を配列した(図1)。また、オサムシの形の多彩さは主食の種類に大きく影響することを伝える展示もこのコーナーで行った。カタツムリを専食する種は頭を殻の奥深くまで突っ込めるように頭部と胸部が細くなるか、殻を噛み砕いて肉を食べられるように頭部や大あごが発達する。一方、ミミズ食のオサムシはミミズの体部を抱え込めるように円弧状に湾曲した大あごとなる。
オサムシは夜行性にも関わらず、派手な金属光沢(図2)を纏う種が多い理由については、未だに大きな謎であるが、前述のような食性による形の進化が際立った虫と捉えられるだろう。今回の展示を通して石川博士の多数・多様かつ美麗な標本に触れながら、昆虫研究をめぐる博士の軌跡を紐解くことで、来場者の昆虫に対する科学的好奇心を育むことができれば幸いである。
この展示開催にあたり、多くの標本をご寄贈頂いた石川良輔博士の他、下記の方々にご後援、ご協力頂いた。日本昆虫学会、日本甲虫学会、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」、NHK、久保田耕平、石川朋子、伊藤勇人、勝山礼一朗、須田真一、瀬戸山知佳、津久井岳、堀江洋成(敬称略・順不同)。また、文京区教育センターの矢島孝幸、保坂美加子、猪岡君彦、佐藤喜裕、豊口可菜(敬称略・順不同)には多くのご支援を賜った他、谷尾 崇と井上暁生の両名にも展示副指揮として制作に取り組んで頂いた。この場を借りて厚くお礼申し上げる。
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