東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime24Number3



収蔵資料紹介
東京大学総合研究博物館のバックヤードから出てきた山田壽雄の植物図

池田 博(本館准教授/植物分類学)
田中純子(練馬区立牧野記念庭園記念館学芸員/歴史学)

はじめに
 2017年2月のこと、筆者の一人池田は東京大学総合研究博物館(以下、博物館)のバックヤードから、かねて気になっていた植物図を引っ張り出してみた(図1)。厚紙にくるまれた包みの中には、着色図が367枚、単色図が167枚入っていた。最初にそれらの絵に気がついたのはその数年前であったが、当時は単に古い時代(大正期)に描かれた植物画があるな、程度の認識で、特に作者については気にしていなかった。しかし、再度開いてみると、多くの絵には「Toshio」といった署名や「YaMaDa ToSHIO del.」といった捺印があることに気がついた。さっそくネットで「やまだとしお」を検索したところ、ちょうど牧野記念庭園記念館で企画展「桜花図譜と牧野富太郎――百年の時を超えて今よみがえる」が開催されており、展示している植物画の制作者が山田壽雄(と牧野富太郎)であることを知り、博物館の植物図を調べたところ、はたして博物館から出てきた植物図は山田壽雄が描いたものであることが確認された。山田壽雄(1882〜1941)は明治の終わりから昭和初期にかけて活躍した植物画家であり、『牧野日本植物図鑑』(牧野富太郎 著・1940年 北隆館 刊)の図を分担作画した人物であることでも知られている。

山田図の特徴
 博物館から出てきた山田壽雄の植物図(以下、山田図)を調べてみると、いくつかの特筆すべき点が見いだされた。多くの図には山田が作画した年月日とともに、材料を入手した経緯などが書いてあった。特に植物学者・牧野富太郎(1862〜1957)に同行して材料を入手したり、牧野から材料をもらうなど、牧野富太郎との関わりを示す記述が多く、山田と牧野の密接な関係を示していた(図2)。さらに、多くの図は『牧野日本植物図鑑』や他の牧野の著作物の図と構図が似ており、原図を作成する際の下図あるいは参考図として用いられたと考えられるものが多く含まれていることが明らかになった(図3)。すなわち、山田図は単に植物を忠実に描写した優れた植物画であるばかりでなく、著名な『牧野日本植物図鑑』をはじめとする牧野富太郎の著作物の成立過程を明らかにする上で重要な情報を持つ資料としても価値が高いものであることが判明した。
 山田図の制作年については、1909年にはじまり1937年に終わる。中でも1910年から1917年の間は、1年にほぼ20枚から30枚を制作し、特に1912年は123枚と圧倒的に多い。多くの図には、採集した植物を山田に渡した、あるいは植物を同定した人名が書かれてある。その中で最も頻繁に出てくる人名は牧野富太郎で、70枚以上にその名が見られる。図の裏には「牧野先生ヨリ」・「牧野先生採」・「牧野先生ト」などと書かれ、松戸や大崎での牧野の採集に同行したり、牧野が当時勤務していた小石川植物園や東京帝室博物館(現 東京国立博物館)で採った植物を描いたりしたことが図の書き込みから確認できる。その他の書き込みでは、「ミソハギとはミソギハギと云ふことで、ミソギをする頃咲くからだと牧野先生のお話」などのように植物に関する牧野の話の記録も見られる。山田図には、牧野富太郎の他にも、「本山氏」(本山侘吉 生年不詳〜1918?)といった園芸関係の人物や、「矢部先生」(矢部吉禎1876〜1931)、「岡村博士」(岡村金太郎1867〜1935)、「武田博士」(武田久吉1883〜1972)、「小泉源一先生」(1883〜1953)、「三宅博士」(三宅驥一1876〜1964)、「岡田喜一氏」(1902〜1984)、「中井博士」(中井猛之進1882〜1952)といった植物学者の名も散見される。
 山田図と『牧野日本植物図鑑』(1940)の図を比較したところ、全体の構図が極めて類似するものから、一部あるいは部分を転写したと考えられるものまで、さまざまな程度で山田図を利用したと考えられる図が見つかった。山田図のうち、『牧野日本植物図鑑』(1940)に利用されたと考えられる図は160枚ほどあった。また、最後の増補に当たる第24版(1955)では、10枚ほどの山田図が新たに使用されていた。
 山田図から『牧野日本植物図鑑』の図を作成するにあたり、山田図がそのまま使用されることはほとんどなかったようである。多くの場合、全体図の周りに部分図が追加されたり、図鑑の原図サイズ(縦横比)に合わせ、整形が加えられたりしている。見栄えをよくするためか、花や実の数を増減させている例もある。また、おそらくは牧野の指示により、植物学的に不自然な部分は修正が加えられている。したがって、山田図から『牧野日本植物図鑑』の図へは、牧野の目を通して図鑑の図として使用に耐えるよう加工されているといえる。

山田図と牧野富太郎の著作
 山田図が牧野の著作物に利用されている例は『牧野日本植物図鑑』にとどまらない。牧野が1950年に千代田出版から刊行した『図説 普通植物検索表』にも山田図が多く利用されている。『図説 普通植物検索表』の624図のうち、およそ100図は明らかに山田図をもとにしたと考えられる。また、牧野は1953年に誠文堂新光社から『原色 日本高山植物図譜』を出版しているが、山田図のうち50枚ほどが元図として使用されていることが判明した。
 牧野は、『牧野富太郎自叙伝』(1956)の中で、「これから二つの大仕事」として、「標品の整理」と「『植物図説』の刊行」を挙げている。しかもその『植物図説』は彩色したものにするつもりである、としている。この文が書かれたのは1940年と考えられることから、『牧野日本植物図鑑』が刊行される前後には、すでに原色版による日本植物図鑑を構想していたことが伺える。牧野は、92歳となる1953年に『原色 日本高山植物図譜』を出した後も、北驫ルから原色の植物図鑑を(監修を含め)次々と刊行している。この時期、ほとんど病床に伏していたと思われる牧野は、最後まで原色の図鑑を出すことに固執しているように見える。しかし、牧野が生涯の目的としていた『原色 牧野日本植物図鑑』を出すことはついに叶わず、その点においては『牧野日本植物図鑑』が出版された翌年に山田が亡くなったことは、牧野にとって痛恨の極みであったと思われる。

なぜ博物館に?
 山田図が博物館に遺されていた経緯については、はっきりしたことは分からない。ただ、木村陽二郎著『私の植物散歩』(1987)の「あとがき」には、恩師である中井猛之進から木村に山田が描いた植物画が渡されていることが記されている。本書に載る山田の植物図は、博物館蔵のものとは一致しないが、少なくとも中井と木村は、山田の植物図が東京帝国大学にあることを知っていた可能性が高い。また、中井は『大日本樹木誌』(1922)の序で「本書挿入の図は余の指針に従い日本のScientific artistの唯一人者たる山田壽雄君主として之を書き」と述べている。博物館で見つかった山田図は中井のこうした著書とも関連があるかもしれず、今後のさらなる調査が必要である。

終わりに
 『牧野日本植物図鑑』(北驫ル 刊)は、研究の進展や時代の要請に合わせ、その体裁を変えながらも現在でも出版が続けられている。そのような、いわば日本でスタンダードとなっている図鑑の成立過程を示す貴重な資料が博物館から見つかったことは大変有意義なことと考えられる。たまたま今年(2020年)は、『牧野日本植物図鑑』が発行されて80周年の節目の年に当たる。牧野富太郎ゆかりの高知県立牧野植物園や練馬区立牧野記念庭園記念館では、『牧野日本植物図鑑』に関する企画展を開催する予定と聞いている。丸の内のインターメディアテクでも、山田図の公開展示を行うことになっているので、ぜひ一度見に来ていただきたい(2020年3月からの休館が終わり次第公開)。また、この4月に北隆館から『牧野植物図鑑原図集 −牧野図鑑の成立−』が出版される。北驫ルに保存されている図鑑の原図と山田図とを比較し、山田図からどのように『牧野日本植物図鑑』の原図がつくられていったのかについても解説されているので、こちらもご覧頂ければ幸いである。


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図1 総合研究博物館のバックヤードから見いだされた山田壽雄の植物図.

図2 東大博物館所蔵の山田図よりタカサブロウ(資料番号 TI00013339).右は裏に書かれた山田のメモ.

図3 『牧野日本植物図鑑』(1940年)より第166図「たかさぶらう」.