東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime25Number2



研究紹介
『レントゲン―新種の光線について』を終えて大いなる遊戯としての、科学―ヴュルツブルクからのメッセージ

森 洋久(本館准教授/情報工学)

 2011年の5月末、当時、国際日本文化研究センターの准教授だった私はヴュルツブルクにいた。文化庁のドイツとの文化交流事業として、大阪の企画会社とタイアップしてモーツアルトの戯曲『魔笛』を茂山流狂言にアレンジしたものを、音楽家、狂言師、スタッフ、総勢数十人ほどの、それなりに大きな部隊で、ドイツのブレーメンをかわきりに1ヶ月ほど各地を公演してまわった。その終盤にヴュルツブルクでの公演がスケジュールされていたのである。ヴュルツブルクの人口は13万人ほどで、実際、こじんまりとして、のどかな印象の街だった。季節もよく、脚本家の小宮正安氏や鼓の中村壽慶氏と一緒に味わったホワイトアスパラガスが美味しかったのを覚えている。なぜ、この音楽旅行にヴュルツブルクが含まれたのかといえば、日本にゆかりの深いフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの出身地であるからということは言うまでもない。『狂言風オペラ――魔笛』は、ヴュルツブルク音楽大学の講堂で上演された。オーケストラと日本の狂言が絡み合い、舞台上の音楽と狂言、観客の笑いが交錯する不思議な舞台となった。日本語の台本はドイツ語字幕スーパーで観客に伝わるのだが、台本に描かれた以上の笑いが興った。狂言風は、『魔笛』の本来のストーリを知っている現地の観客に、原作のストーリと狂言風の齟齬や、舞台上の演者の身振りやアドリブなど、様々な要素の相乗効果で予期せぬ笑いをさそい招く。その熱気の余韻覚めやらぬなか、街を去る前日、偶然見つけた小さな古書店で、思い出のヴュルツブルクの街の古地図を買った。それから月日が流れ、私は2017年総合研究博物館へと赴任してきた。そして昨年の春、ヴュルツブルク大学のアルフレッド・フォルヒェル学長と本学ナノ量子情報エレクトロニクス研究機構長の荒川泰彦教授のご縁から、当館教授の松崎浩之氏を通じて、レントゲンのX線発見125年の展覧会の企画運営担当の依頼が入ってきたときは、なにか運命的なものがあるように思えた。
 ヴュルツブルク大学と東京大学には長い交流の歴史がある。ヴュルツブルク大学学長であったヴィルヘルム・コンラート・レントゲンがX線を発見したのは1895年の11月である。そのニュースが次の年の春先には日本に伝わっていたということは、当時の新聞には、2〜3ヶ月前の国内のニュースが載っているくらいであるから、世界的なニュースがいかに早く伝わってきたか、日本も全世界的同時代を共有していたと言える。そのスピード感には、当時、ドイツに留学していた長岡半太郎が一役買っている。ドイツの様々な学会のニュースやレントゲン自身の論文などを日本にいち早く伝えたのである。一般的なニュースではなく、学術的に意義のある様々な情報を日本に、あるいは東京帝国大学のチームにもたらした。このため、のちに東京大学総長になった山川健次郎率いるチームが、まだ1年たたずの1896年の5月ごろにはX線の発生に成功するという快挙を成し遂げる。ヴュルツブルク大学と東京大学の関わりはこのときから始まる。無論、東京大学から日本へと幅を広げるならば、ヴュルツブルク大学との関わりは、シーボルトが伊能図を〈盗み出そう〉と考えるほど、日本が極東に位置する謎多き国であったころからで、シーボルトは、レントゲンよりずっと以前にヴュルツブルク大学の学長を務めている。日本は開国し、中国、東洋の学問基盤から脱却し、西欧的学問基盤へと転換しようとした明治期に、その流れの中で東京帝国大学も編成された。欧米との人的交流は、このような新しい日本の構築に欠かせない国家政策であり、その一つの大きな成果が、まさに、レントゲンのX線発見の日本における追試であった。余談だが、この時代について、「脱亜入欧」という言葉を時々聞くが、〈脱亜〉でもない。欧米へ渡った日本人は、欧米を見聞きすると同時に、日本をはじめとした中国や東洋の文化や思想を欧米に伝えたとも言える。一方で、この時代に日本が持ち帰った西欧の思想や文化は、中国や朝鮮にも広がっていた。そう考えると、東洋と西洋の間にあり、双方向な、ハブ的存在として日本があったとも言える。
 「X線発見125年」という冠の下での展覧会としては、X線の科学的意義であったり、あるいは、その多岐にわたる応用を会場に展開するといった指向の内容もありえただろう。しかし、今回の展示はそうではなかった。レントゲンの人となりや、科学に対する姿勢がテーマであった。なかでも、ヴュルツブルクからいただいた、ドイツ物理学会長のディーター・メシェデ氏の文章はそのテーマを如実に表している。メシェデ氏は、フリードリッヒ・フォン・シラーの書簡集『人間の美的教育について』の一節を引用し、「人は『彼が遊ぶ時においてのみ完全に人間である』ということは、科学者にも当てはまる」と説いている。世紀の〈発見〉は、発見しようとして〈発見〉されたものではないこと、かといって、偶然の結果でもない。レントゲンの科学的な探究心、ストイックなまでの厳密性に裏打ちされた行動の、抜けた向こうに、あらゆる束縛から離脱し〈遊び〉がはじまることによって、その〈発見〉はなされたのである。
 真空にしたガラス管の両側にある電極に高圧の電圧をかけると、放電が始まり淡い光をだす。その放電現象がなにか当時の物理学ではわからず、電極のうち陰極から流れ出てくるものなので、陰極線と呼ばれていた。レントゲンはもともとこの陰極線の正体を突き止めるために、それを発生させる真空管の中から陰極線を取り出す実験をしていた。ある日の実験のこと、真空管をすべて黒い紙で覆い、光が漏れ出るはずのない状態を作ったはずだった。ところが、たまたま、そばに置いてあった蛍光紙が光っていることに気づき、なぜそのようなことが起こるか興味を抱きはじめた。光が透過できないような物質までも透過するものがあるのではないか。そこから、本来の計画していた実験は中断となり、三日三晩、だれも研究室に寄せ付けず、その未知なる光の正体を追って篭り続ける。真空ガラス管にかける電圧を調整したり、紙の厚さを変えてみたり、金属やほかの物質も試してみることにより、最終的に、今まで知られているような光や陰極線とは異なる性質の、未知なる放射線が存在しているという結論に達した。これをX線と名付けたのである。このニュースを耳にした多くの科学者たちは「そういえば」と思った。「私も、確かに真空ガラス管を扱った実験をしていたときに、蛍光紙が光っているのを見たことがある。」しかし、残念ながら、彼らは当初の実験に束縛され〈遊ぶ〉ことはしなかった。たとえ、蛍光紙の光に気付いたとしても、科学的に厳密な実験をしなければ、蛍光紙の光はただの光の域を脱し得ない。レントゲンは、与えるエネルギーと露出時間、透過対象物の性質や厚みに比例して、透過しうる未知なる放射線の露光量が変化するという科学的な連関性を実験で示そうとせんがために、不安定な当時の発電機をあらゆることをして安定化させることを試みた。巷の科学者たちはそのような厄介ごとはしなかった。レントゲンにとっては、すべてが本来の計画を忘れさせてくれるほどの〈遊戯〉になっていたのである。
 だれもが知っているように、シラーはベートーヴェンの交響曲第9番『歓喜の歌』の詩人である。シラーの書簡とこの詩(うた)に通底するものは、なんといっても人間性の回復であり、つまりは、メシュデ氏の述べようとしていることもまさにその点にあると言える。シラーは一方で「人は、人間的であるときにのみ遊戯をする。」とも言っている。遊びは、遊ぼうと思って遊べるものではない。〈遊び〉は人間性が高まったときに、いわば自発的に始まるものである。つまりは、いっとき、科学は遊戯だと称してしゃかりきに遊んだとしても、それは〈遊び〉にはならないのである。まして、〈発見〉という遊戯には結びつきようがない。レントゲンの洞察力は、一夜にして成ったわけではない。レントゲン自身の長い人生の中で養われた第六感とも言えるだろう。それは自分自身の先入観や我を捨てて自然からのメッセージによりそう、透り抜けた心の目だったかもしれない。こう考えれば、レントゲンにとって〈発見〉は、人生の一通過点にすぎないのかもしれない。レントゲンはただただ人間らしく生きることを貫いた。そして、彼の人間性が最も高まったときに〈発見〉は自ずと降臨した。彼自身、〈発見〉を自分のものだと思っていない。彼が貫き通した人間性そのものが科学だったのだ。
 笑いと遊戯には、共通点がある。いずれも心の奥底からふつふつと湧き上がってくる人の本質であり、その先に芸術も科学も存在する。


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図1 ヴュルツブルクで購入した古地図 WURCEBURGENSIS Matthaus Seutter, Augsburg, 1741.

図2 インターメディアテク博物誌シリーズ 〈6〉東京大学=ヴュルツブルク大学連携特別展示『レントゲン――新種の光線について』全景.(拡大)