2006年の6月、成城大学文芸学部元教授、故今井冨士雄先生(1909-2004)が生前、青森県で収集なさった縄文時代考古資料の一部が総合研究博物館に寄贈された。今井先生は成城高校卒業後、京都大学文学部哲学科にすすみ、同大学院で考古学を学ばれた文化史家である。大学院修了後は同考古学教室の副手として、京都大学が主宰する日本各地さらには大陸での野外調査に活躍された。ついで成城大学に新しくできた文芸学部に着任なさる前には、同じ青森出身の国務大臣笹森順造の秘書官をつとめるなどして戦後の混乱期を過ごされている。やや異色のご経歴は、米寿をむかえて教え子たちが刊行した記念論集、『雑草苑』(1999 年、一穂社)に詳しい。
総合研究博物館と今井先生とのご縁を作り出したのは、2000年に寄託された「中谷治宇二郎コレクション」である。本学人類学教室を舞台にして昭和初期に活躍した中谷治宇二郎(1902-1936)の旧蔵資料を、中谷の長女法安佳子さんが本館に寄託なさったものである(拙稿「考古学者中谷治宇二郎の記録」本誌第5巻3号、2001年)。資料の由来などを調べる際、それをよく知る人物として法安さんにご紹介いただいたのが、当時卒寿をこえられていた今井先生であった。うかがえば、東奥義塾の中学時代から考古学に関心のあった今井先生は浪人時代に上京し、中谷を訪ねて足繁く人類学教室に出入りしておられたとのこと。青森の先史遺跡調査にも同行した自称「中谷の弟分」。中谷のパリ留学時代を含む昭和一桁期に交わした80余件の書簡までもを大切に保管しておられた。博物館で、またご自宅で、若くして亡くなった中谷の考古学人生につき60年以上も前の話とは思えぬほど活き活きと語ってくださったことがなつかしい。ご子息の今井和久氏から旧蔵資料の寄贈を受けた時には、そんな記憶がわきあがってきた。
哲学科出身という経歴もあってか、考古学のみならず思想、文芸、民俗など幅広い評論活動を展開された今井先生であるが、考古学上の最大のお仕事の一つは、成城大学着任後に実施なさった郷里青森岩木山麓の野外調査であろう。足跡を印した多数の遺跡の一つ、十腰内(とっこしない)は東北地方北部の縄文時代後期標識遺跡ともなっている。今回の寄贈品は岩木山麓における一連の発掘で得られた標本と、その調査図面、日誌などで構成されている。数量は多くないとはいえ優品が含まれる。なかでも、小森山東部遺跡の仮面人物土偶、イヌ(オオカミ)形土製品は秀逸である(本誌、根岸・中門論文参照)。総合研究博物館の人類先史部門には日本各地で収集された縄文土偶が多数保管されているが、それらに類例がない本標本群を東京大学のコレクションに加えることができたことは大変ありがたい。今井先生に改めて御礼申し上げるととともに、和久氏、法安佳子さんに深く謝意を表する次第である。