東京大学総合研究博物館 The University Museum, The University of Tokyo
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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime14Number1



特別展
常設展、「キュラトリアル・グラフィティ〜学術標本の表現」を企画するにあたり

諏訪 元 (本館教授/形態人類学)
 博物館に改組以来、「実験展示」として大小さまざまな展欄会を開催してきた。その中で旧館部だけを使う「常設展」を幾度か試みている。ただし、常設展といっても特定のテーマを設けるならば、実質的には特別展とそう変わらない。だが、同時に新館部では歴とした「特別展」が開催される。今回の「鉄」展がそうである(本稿では、展示名は通称名を使わせていただく)。では、同時開催の「常設展」と「特別展」の違いは何か?それらのコンセプトは?一つには、常設展は、当館のコレクション自体を柱にすること、それにより、開催期間に柔軟性を持たすこと。特別展が躍動的ならば、逆に、どっしりとした安定感を持たせること、などを念頭に置くことができよう。
 そうした視点でかつての「常設展」を顧みたい。先ずは、2000年7月から2001年6月までの1年近く開催された「骨」展がある。実は、この「骨」展は「骨(2)」であり、前身の「骨(1)」があった。「骨(1)」展の場合は、必ずしもコレクションとしての「骨」が題材ではなく、むしろ、テーマを設定する際の掛け声としての「骨」だった。その後、三つの大きな特別展を経、「骨」展を再開したが、これは全く別の展示となった。この「骨(2)」展では、動物の骨格標本で形作った山のような空間が人気を呼んだ。また、霊長類の各進化段階から人類までを、一つの基本ラインとして展覧した。そして、「あそこに行けば、何々の骨が見られる」との評判が会期を通じて強まっていったように思う。展示を終了するのが大変惜しまれたことを記憶している。
 次の「常設展」は、2002年7月から2003年6月まで、やはり1年近く開催された「クランツ」展である。この展示では、キュラトリアル・ワークの成果を比較的ロングランの展示として公開することとなった。クランツ標本は、本学の創立以前にまで遡る、自然史分野における、重要な学史標本群である。この常設展を契機に、館内におけるクランツならびに関連の鉱物、古生物、植物標本について実態調査が進み、標本資料報告集の出版にもつながった。また、特徴的な特別展を同時開催するというパタンの確立に至った。「クランツ」展と並行して開催された特別展は「学位記」、「貝の博物誌」、「ニュートリノ」の三つであった。この間にミュージアム・テクノロジー寄付研究部門が設立され、機動的かつメッセージ性の高い展示の追及が始まった。
 「クランツ」展の後、しばらくは全館をフルに使った大型特別展が続いた。「学位記展II」、「シーボールドの21世紀」、「石の記憶」、「新聞」展である。いずれも一定の完成度を持った、魅せる展覧会であり、ディスプレイデザイン賞の受賞展となった。そして、「システマ(Systema Naturae)」展へと続く。「システマ」展は旧館部だけで開催され、2004年10月から2008年2月まで3年以上継続した。この常設展では、自然史分野の基礎コレクションを、「体系」といった、やはり基礎的な共通項で貫き、洗練された情報と空間のデザインにより、新規性と安定感の双方を調和的に表現してみた、といって良いだろうか。旧館部で「システマ」展が継続する中、新館部では特別展を9回開催した。それらをここで列挙することはしないが、「システマ」展をいつまで引っ張るのか、そのつど議論したように記憶している。しかし、新たなチャレンジを掲げた特別展を目まぐるしく展開することを可能にしたのが、基礎コレクションをどっしり見せ続けた「システマ」展の存在だったと思う。そうはいっても、このスピード感あふれる今日このごろ、3年4ヶ月のロングランは限界にきていたかもしれない。2008年に「鳥」展が全館規模で開催されると、「システマ」展は終焉した。
 さて、「鳥」展のあと、新たな参加型の実験展示の「オープンラボ」展、再び全館の「フランス」展を経、今日に至る。そして今回の「常設展」の立ち上げである。目指すは「システマ」展のように、あるいはそれ以上に飽きのこない、深みのある基礎コレクション展である。もう一つ、この常設展で取り込みたい視点は、「クランツ」展でもそうであったが、標本資料報告集との関わりである。標本資料報告集は地味である。ある一部の資料報告集は入手希望者も多く、早期に在庫切れした号も確かにある。しかし、極めてドライな基礎標本情報のリストが延々と続くだけのものが必然的に多い。実は、双方とも重要なのである。専門的価値を保ったコレクションとして、いかに世代を超えて確実に継承してゆくのか、そのために必要不可欠なのが標本資料報告集である。電子媒体が日進月歩の現在、逆に、それだからこそ出版物の存在価値は依然と高い。それはいかなる電子媒体よりも、アクセス可能な情報源として、出版物はより持続的に機能するからである。
 総合研究資料館が設立された1966年の10年後に第1号の標本資料報告が出版された。それ以来、第80号が出版される現在までの累積出版数を棒グラフにしてみた。博物館改組の1996年には33冊が出版されていた。そのころ一休みしたあと、着実に出版数が伸び続けている。一冊の報告集を刊行するまでに、対象資料群を整理確認し、付随情報を再検討・新規拡充し、標本状態の向上を目指す。この作業にどのくらいの専門知識と時間の投入が必要だろうか?それは様々であろうが、多くの場合、少なくとも数年以上はかかるといっていいだろう。いや、10年単位の地道なキュラトリアル・ワークで初めて効果的な成果が上がっている例も少なくない。また、どのような視点で何を纏め上げるのか?それも千差万別、一定則はない。基礎的な標本情報だけの単純なリストこそが重要なこともあれば、命名や記載など特定の学術情報との対応が必要不可欠なこともある。標本そのものの現存状態を画像記録することを優先する場合もあれば、関連調査などのコンテキスト情報を膨らませて纏め上げてこそ意味がある場合もある。
 今回の常設展では、3つのことを目的とした。まずは、博物館の基盤と言える標本資料に関わる日々の営みの象徴として、標本資料報告集そのものの存在をアピールすることである。評価、そして一過的な評価対策が先行するこのご時勢、ややもすると、一端標本資料が博物館にあれば、それはいつでも利用可能な状態で待ち受け、待ち続けてくれるように錯覚しがちである。ここでは、80冊の標本資料報告集の背景にある、無数の先駆者、同僚、学生、協力者の方々の努力と熱意に敬意を表し、感謝したい。おかげで効果的な学術標本利用が現在、可能となっている。
 次に、常設展であるがゆえ、当館のコレクション紹介の窓口として機能したい。当館は、研究部と17の資料部門からなり、推計300万点以上の学術標本を保有している。明治10年の創学以来、諸部局に継承されてきたコレクション、明治大正期から現在までの各分野におけるフィールド・ワークで収集された標本資料群、万単位の動物と植物のタイプ標本、近年増している特徴的な寄贈標本類などである。ただし、展示では、全分野を効果的に扱うことを目的とするのではなく、博物館が持つ広がりを80冊の標本資料報告集から汲み取るとしながらも、展示の核としてはテーマを絞って行うこととした。今回の展示では、担当者である私の専門性から人類学をテーマとしたが、同様な全体枠のもとで無数の展示をつくることができよう。今回の展示は、キュラトリアル・ワークの成果発信を、展示を通して表現する実験展示でもある。分野焦点はいかようにも変えられる。最後に、今回の展示品の中核だが、これは「骨」と「先史」(特に土器)とした。それは、近年5年から10年間、当館が誇る古人骨コレクションと、我が国の先史考古学の曙期そのものに由来する資料群のキュラトリアル・ワークを推進してきたからである。その実態と成果を、展示を通して表現してみたかった。
 今回の展示は、ミュージアムテクノロジー寄付研究部門との共同プロジェクトとして、旧館部4室の展示を設計した。第1室では、全80冊の標本資料報告集を紹介すると共に、人類先史標本のキュラトリアル・ワークの過去と現在を効果的にアピールする導入展示とした。特に、100年以上前に収集された標本については、当時の視線をも一部表現してみた。第2室には、人骨の見方を解説する「骨学展示」と、明治期まで遡る日本の古人骨標本の紹介が中心である。100年余り前、ちょうど1900年から1910年の間のことである。その時、初めて日本の「石器時代人」の身体特徴が(骨標本により)明らかになりつつあった。そのときの新発見の標本を改めて眺めてみたい。キュラトリアル・ワークを通じ、当時の新発見の驚きと感慨を自ら感じとっている次第である。
 第3室は「土器部屋」とした。本館の重要資料群のひとつにE. S. モースによる大森貝塚の発掘品がある。1877年、日本における初めての科学的な考古学発掘による標本資料として知られている。また、佐々木忠次郎らは、師匠のモースが帰米する前後の1879年に茨城県の陸平貝塚を発見し、発掘した。大森と陸平の出土品の主要部は、当時の理学部紀要に報告されており、それぞれ252点と128点の土器、石器、骨器などの出土遺物からなる。大森のモース標本は1975年に重要文化財に指定されている。これらの標本資料は、本学において代々継承されてきたが、100数十年経った2000年ごろの時点で、3分の2程度が確認されていた。逆にいうと、3分の1が行方不明状態とのことである。そこで、2003年から2006年にかけ、関連標本の収蔵状況を、可能な限り網羅的に調査することとした。
 大森と陸平ら資料のキュラトリアル・ワークは、主として、本学人文社会系研究科考古学研究室の大学院生(当時)の初鹿野博之と山崎真治が担った。陸平資料については、所在地の美浦村教育委員会と共同で行った。明治期の理学部紀要に図が掲載されている不明標本について、特定をさらに試みると共に、モースの他の出版物、「Traces of an Early Race in Japan」(1879年)、「Japan Day by Day」(1917年)掲載の図、モースが米国に持ち帰った未出版の写真、佐々木による「学芸志林」掲載の図、佐々木がモースに当てた書簡にある図、さらには神田一ツ橋の「博物場」の展示品目録と照合し、モース・佐々木関連資料を新たに特定することを目指した。その成果は目覚しく、全く別の平箱にまぎれていた土器片がいくつも、モース・佐々木が図示した土器標本と、新たに接合し、次々と同一個体と判定されていった。結果、モース・佐々木時代の標本と確実に特定できた土器片の数は60%増した。私個人としては、予想をはるかに超える結果であり、ただ驚かされた。それでもなお、紀要に図示された標本の20%ほどが行方不明のままである。今回の展示では、モース・佐々木関連の特定標本の全体を公開する。
 最後に第4室では、80冊の標本資料報告集の分野的広がりに戻り、展示デザイン上、4つの大きなテーブル展示空間を設けることにした。そこに植物系、古生物動物系、地質鉱物系、考古系の各資料群のキャプセル的な展示を作った。合わせて、関連の48冊(12冊×4テーブル)の標本資料報告集を閲覧展示する。今回の展示で掲げている大きな目標は、既に述べたように、「システマ」展のように、並行して繰り広げられる特別展と良いコントラストを織り成し、しかも常置された展示として機能し続けることにある。キュラトリアル・ワークの成果を単に見せるのではなく、それを通じてUMUTコレクションに対する好奇心を如何に満たすか、あるいは、いかに呼び起すか、それにかかっているのかもしれない。果たして、希望通りのロングランが維持できるのか、展覧会の開催とその後の経緯を見守りたい。

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図1 標本資料報告集の累積出版数
(縦線は博物館改組の1996年)


図2 標本資料報告集、全80冊における
分野横断的な関連を表現してみた。


図3 大森貝塚出土の代表的な土器標本、1877年、E. S.
モースらによる発掘収集品(写真:上野則宏撮影)


図4 大森貝塚出土の可能性の高いが、個々に関する
出自が未確認の標本状態(写真:上野則宏撮影)