遠藤秀紀 (本館教授/先史考古学) 文字の意味 私の展示場は、来館者にとって苦悩の場であることを企図したものである。展示場で快適な時を過ごそうと思うなら、都内にそれこそ日本中の自治体に、ただ楽しいだけの展示場から丁寧に自然科学や美術を説明してくれる親切な部屋などは無数にあるから、そういうものが好きならばそこを訪ねるのがよい。だが、一たび私の「命の認識」に入ったならば、あなたも苦悩する一人の小さな人間に過ぎない。 瑣末な話を棚上げすれば、空間は高さ650ミリの平らな舞台からなっている(図1)。そもそもが大した広さの部屋ではないが、設置する舞台の大きさとしてはこれまでで最大であろうし、実際問題、これ以上大きくすることも難しい。とにもかくにも、この不定形の平面上を見据えて、来館者は悩み続けてもらいたい。暗色に静かに設えられるこの平らな面こそ、人間が命をどう感じ取るかという、いわば闘いの場に化けていくはずだ。そのために、普通に展示空間に漂っているいくつかの存在に立ち退いてもらった。その第一は文字と、意味もなく文字を空間に配置する人の“意志”だ。 昨今の世のイネルシ(inertie)と対比すれば、私の展示場に最初から立ち去ってもらいたいのは、まず文字なのである。“館長あいさつ”しかり、展示趣旨しかり、痒いところに手が届く解説文しかり、世間の展示場は文字の導入に余念がない。こうした必ずといっていいほど存在するお約束ごとのすべてに、私の展示場からは真っ先に退場いただいた。 もともと展示物に添えられる文字は、中世封建ヨーロッパの貴族の戯れを他人に見せびらかすための添え物であり、市民革命と民主主義の確立以降は、それは一部少数の人間が創出する学術文化を多くの人々が分かち合う合理的連絡手段であった。日本でいえば、生涯教育が通俗教育と呼ばれた旧憲法下の時代を迎えて、文字は時に官製博物館美術館の枠組みの中で、ぎりぎりの展示演出を担うものにまで変化を遂げた。 戦後でいえば横須賀市の博物館の建築がターニングポイントの一つと考えられるが、戦前までと異なる状況として、戦後社会教育の枠組みにおいて博物館展示というマーケットが、博物館周辺に生み出された。右肩上がりの経済情勢とGHQ主導・冷戦勃発による中途半端な民主化を通じて、博物館の展示場は、官と産が主となり学が従属する形を通例とする、公共事業・観光振興の場として回転を始める。むろんそこで学界はより良い博物館を模索して展示の水準を先導することはあり得たが、教育の自治が確立されなかった戦後社会教育の体制が生み出す展示場には、おおよそ検定済み教科書や学習指導要領の本質を超えるほどの文字が機能することは難しかった。 こうして展示場の文字は、不幸にして、創造と表現の場というよりは、ただ無機質以下の情報伝達手段と化し、ときに行政文書程度の“世界”に閉塞することが普通となった。もちろん一部の博物館づくり・美術館づくりに燃えた個人によって創作された空間にはただならぬ趣ある文字も見られたのだが、文字は残念ながら、単純に無意味であるか、ポピュリズムを親切心で繕うか、あるいは初等理科解説書をコピーするかしたものとして、展示場に飾られた。そうした文字は、展示の作り手や来館者の精神世界に対して貢献したのではなく、孫請け看板業者の多少の生活費に化けるにとどまったといえるだろう。簡単にいえば、巷の博物館の文字の99.999%までは、それが経済的に余裕のある実業家であれ、県庁から天下ってきた官吏であれ、仕事をした振りをしなくてはならない博物館の経営責任者と、グラフィック職人たちを下に抱えて丸投げ博物館事業からマージンをかすめ取る大手展示内装企業と、そして最後には新しい発想を生み出し得なくなった展示“制作”者自身が、保身のために金銭を費やした、無慮と愚昧の副産物としてのみ存在する。 名画の意匠を美術館が解説したとしよう。それは大いに嘲えるほど“親切”であろうが、元になった絵以上の力を有する言葉などあり得ない。少なくとも、それを厄介な邪魔ものだと考える人間がごく普通に存在していることを、美術館は知るべきである。同様に、歴代柳家小さんがなぜ面白いかを説明する寄席の解説は座の外で“活躍”すべきであるし、黒澤明の合戦シーンも円谷英二の破壊シーンも、その良さは、言葉なしでスクリーンから観客が直接受け止めるべき世界観である。最近は、シアターの舞台の脇に、小洒落た小ホールが用意され、舞台の後でファンと俳優と演出家のワイン会などが催されることがある。役者のサービス精神は“褒めて”もよいが、芸に二言は無しだ。そのことを完全に理解した上ならば、ワインを小パトロンと一緒に飲みたいというプロたちを、なんとか許容する気も起こる。あえていえばその程度のものだ。 かくして、文字をもって説明すべきでないものを受け止めてもらうべく、私は文字列の排除に腐心した。学術と称して展示物に文字が付帯する空間を、忘れることにしよう。物を見て認識に真に苦悩するのは、来館者が当然背負うべき運命である。この展示場は、その運命を喜んで受け入れる来館者に対して無限に開かれ、同時に、その苦悩を好奇心でもって受け入れようとする人間を増やすことを、私の楽しみとして作られたものである。 俗に“館長あいさつ”という元来まったくもって本質をもちあわせない看板がそのあおりを食ったのは、その看板にとってはかわいそうな出来事であるかもしれないが、この展示の数か月間は、私の空間の理念の前に耐え忍んでいただこう。すべての文字が消えることが、来館者の苦悩の時間にとって、必須の条件なのである。 文字の排除は、創造性の当然の帰結の一例であるといえる。それは、いつの時代であっても商習慣や公共事業と同質化することなどありえない、最高の学術による至極普通の表現でもある。これは、この展示の期間のみならず、博物館なる存在がこれから永続的に求めていくアイデンティティの、ひとつの形でもある。 完成する展示場では、三桁から四桁に及ぶ骨の部品が、来館する皆さんと同じ空気を吸ってくれるはずだ。これらの骨はすべて、進化の歴史を経て身体を構成したものであり、人間が他の生き物を直接認識し得る唯一の実態として、形をなしている。やはりそこに文字の必要性は無い。 図録の意図 平均値を少しだけ逸脱した私の展示場について、展示空間とはまったく別に、私は二つの印刷物を用意することにした。展示場現場限りの小パンフレットがひとつ。そしてもうひとつが、展示図録である。私の展示場では、文字は展示物と来館する貴方とを結びつけることはない。他方で、印刷物は、展示場から離れた理念と空間で、貴方に対する読み物として機能し得る。 展示場で好きに使っていただく小パンフレットは、来館者の方々の日本人的な勤勉さに対する、わずかばかりの添えものである。すでに語ったように、この展示空間からは文字に退散してもらった。展示室をつくる数千単位の骨も、大きなアクリル水槽に沈んだ奇妙な被造物も、黒光りする数多の鳥の羽の塊も、南の島を闊歩していたはずの巨大なサルの頭蓋も、そして死体を詰め込んだ冷凍庫も、写真を封じ込めたコンピューターも、本質に文字をもたない。これが作品としての私の答えである。 他方、平均的日本人なら、この部屋に飾られた物から、必ずや科学的事実や科学者の足跡を学びたいという向学心を湧きあがらせるはずだ。それは、勤勉なアジア人が、どこにいてもどんな学びのチャンスをも逃していない実例として微笑ましく受け止めてよいだろう。だからといって私のセンスでは、ここで小ワイン会という訳にもいかないのだが、そうした微笑んでながめるべき真面目さに対して、少しだけ、我を曲げようと決意した。 図録(図2-4)は、自然科学に飢え乾く普通の人々に対する、私とそれ以外の著者からのささやかな贈り物だ。ぱらぱらと紙を繰ってもらえれば、そこに、形態学が残してきた思索の足跡はうかがえよう。私が図録を舞台として与えた相手は、まずは骨たちである。 各骨の形状はおもに、二つの進化学的観点からとらえられるべきものだろう。その一つは系統性であり、他方は機能性だ。系統性とは、すなわち、祖先が備える基本体制に規定される形の制約である。脊椎列の配置、四肢の概要、頭蓋の構成骨などが、歴史学的に急激に変革を受けることは難しい。系統性とは、祖先の形態を子孫に忠実に伝えるという論題である。 他方、機能性は、ときに系統性と明確に矛盾することになるが、形状そのもの、表現型そのものが、機能を達成するための合目的的構造をなしていることを示す。飛ぶための装置としてのコウモリ類と鳥類の形が似てくることがその一例だろう。形態は動物の生き方を忠実に反映しているのだ。 骨は、実際にこうした進化学的枠組みをもって決まっている。それゆえ、展示場の骨たちは、その歴史性を、系統と機能の両面から語り尽くす存在なのである。 命を認識し、死を感じようとする来館者が、そのうえ、形をとある体系のもとで学ぶ場として展示空間を使いたいとするならば、そういう文字を必要とする日本人のために、今度の図録は存在する。 骨の舞台と骨の壁 展示空間を静かにも占めてくるのは、命を担った数千の骨である。少しだけ人間の立つ床より高くなっていることを除けば、この床は平らな、至極シンプルな、装置をもたないただの舞台だ。その舞台上に並ぶ物言わぬ骨たちは、それこそ図録の文字を借りれば、形態学者や解剖学者が命がけで対峙した相手に他ならない。 他方、この空間では、骨は、来館者との命の認識をめぐってやりとりをする、とある存在だ。それは、そもそも死の集積と受け止めることもできるだろう。死あっての、対立概念としての命が浮かび上がるのか、さもなくば一人歩きする死が命を勝手気ままに語り始めるのか、予測はできない。少なくとも私はそこに介入しない。あとは舞台上の命と、来館者との無言のやりとりが熱を帯び始めるのを、私はひたすらに待ちたいと考える。 文字のない空間は、そこに何があるかをとりあえずは伝えない。あえていえば、標本の大きさが最初に訴えてくる要素かもしれない。展示場で初めに人々の目に入るものは、実はクジラの骨である可能性がある。子供の身長より大きいほどの三角形に尖った“置き物”が寝ているように見えれば、それがクジラだ(図5)。この動物はもちろん地面を歩くような四肢は備えていないが、展示場には、頭蓋に連なるいくつもの背骨が並んでいることと思う。数量の知識の多い人には、これが三十メートルのクジラの残骸かと早合点する可能性もあろう。残念ながら、展示室に居場所を与えられたのは、生きていたときに全長八メートルほどにしかならないミンククジラという小粒のクジラだ。ざっとこの大きな骨の四倍くらいの被造物が地球に生きていると思えば、数量好きな来館者にとっても、命の認識の一助となろうか。 おそらく目立つものでいえば、大きな角のある頭蓋骨に目が行くかもしれない。ヤクというウシのなかまの動物である。この骨はネパールの高山から日本へ運ばれたという記録をもつ。日本では見られないが、ヤクはアジアでは大切な家畜だ。もともと物流が機械化されていなかったころのアジアでは、社会にも生活にも不可欠な、物を運ぶ動力だった。いまではだいぶ位置づけは変わってきたが、道路の整備もない高山帯ではいまでも人々の貴重な伴侶である。そんなこの動物のいまをアジアの光景とともに目に浮かべながら、ヤクの頭蓋を見つめる来館者もいるのかもしれない。 もうひとつ、部屋の空気をつくる大切な役どころをモノクロの写真群に委ねた(図6-9)。撮影者はわが研究室の学生、小薮大輔さんと森健人さんである。ときに熱狂の、ときに冷徹の生み出す白と黒の世界は、形から命を認識しようとする目が作り出すものだ。同じ写真なる媒体でも、同じ骨なる被写体でも、図録で解剖学の土俵に踊るもの(図2-4)とは何の共通点もないことに気づかれるだろう。これらの写真群の世界観は、展示場で標本を見る人々の背後に、連鎖として完成されよう。形状をもった骨をとある角度から見るとき、同じ命の形は、まったく異なる自己主張を始める可能性がある。ましてやそれが深度のずれを魅せる写真なら、白黒のはずの命の認識は、また際限ない彩を添えられる。 壁に貼られた40枚ほどの写真は、展示されている標本を常日頃から見ている解剖学者の卵が、骨を相手に感じとっている形を、ファインダーに切削してもらった結果だ。それが何を意図して撮られた写真であるかを考えるとき、写真への思いはそれを見る人間の数だけ在って当然である。ここでは数多の命とそれを写し込んだ印画紙との関係がこの展示場だけの空気をつくる。おそらく両者の出会いは希な機会だろうから、今をおいて感じる時もなかろう。 700の命 とある700の命が博物館に生きてきた。その一部が展示場で来館者と同じ空気を吸っている。正体はイノシシの頭と下顎だ。日本の自然に融け込み、日本人の伝統や文化や風土になじんできたこの動物は、形をもって命を認識させる機会に事欠かなかったはずだ。 事実、縄文時代や弥生時代の遺跡から大量のイノシシの骨が出土してくる。古来日本列島に暮らしてきた人間はイノシシを狩り、殺し、食べ、時には飼い育てた。私たちはいま、そうした古の人と動物の間柄を、遺跡出土骨から学ぶことができる。そして長く培われてきたイノシシと日本人の関係は、この21世紀にも命の認識の一断面として表出してくる。 展示場に広がっている骨の集団の中に、ひときわ数多く見えているのがいまの時代のイノシシたちだ(図10)。これを集めたのが、当館館長の林良博である。1970年代を中心に、日本全国の山から狩猟者を通じて集められてきた命。コレクションを構成する数は700に及ぶ。 展示室のどの角度から見ても、ひときわ個体数の多い種類を見つけ出すことができるだろう。数多あるイノシシはどれ一つとして同じ大きさや形のものがない。命の多様さとは、まさしくこの光景が語ってくれているものだ。細長い直線的な頭。形状の多彩な歯列、そして大きく目立つ犬歯。このコレクション群は日本列島のイノシシの基本的な形とサイズを伝える第一級の基礎資料である。1970年以降、林によるイノシシの研究は、この動物の地域差、性差、年齢差を基本的数値データとして残すこととなった。オーソドックスな研究手法は、だがしかし、当時少数例のケーススタディがまかり通っていた客観性の低い研究水準を克服していく先陣を切るものだった。 ニホンジカ、ツキノワグマ、ニホンカモシカといった名だたる獣の骨格標本の集積が乏しく、十分な定量性をもって動物の形の認識ができなかった時代に、この林コレクションは、欧米の水準での骨形態学をわが国に初めて導入するものとなった。さらに、コンピューターが普及していなかった時代に、このコレクションの計測値は、東京大学の大型計算機によって多変量解析にかけられた。主成分分析にせよ、正準判別分析にせよ、大量の形状データの比較を視覚化するという流れがもたらされた最初の例になったといえる。そしていま、林の努力によって残されたイノシシの頭と顎は、いま、私が認識する命に化けている。単一の標本と異なる数百の命は、イノシシなるものの平均値の提示にとどまらず、森を生き、山に死ぬイノシシの生涯のすべてを私の感覚に直接訴えてくるものだ。 一つの骨と700の骨の違いは、命を認識するという切り口から見たときには、単に700倍という数字を超えて、命とその死に対する想像力の限界を突き崩す力となって、私に迫る。一つの死からは感じ得なかった標本の力を、いま受けとめている自分に気づくことができるのである。1970年に科学的定量的平均値を動物学の世界にもたらした700の命は、いま、恒久の存在を博物館に見出し、命と人間、命と社会、命と文化の新しい関係を創り出していく主体者に昇華したのだ。 展示室では、この700の命のいくつかが、他の命の塊りと凝集しているはずだ。イノシシの命は、クジラ、ヤク、シカ、カモシカ、ゾウ、そしてカエルやフナに対してまで関係を築きはじめる。展示室では、700の命は、ひょっとすると生前に何の相互関係もなかったかもしれないような他の命と絡む。私自身が見てみたいのは、来訪者が、こうした新しい命の混交をどう受け止めていくかという点である。展示を創案制作した私自身にとって、この命のカオスこそ、新しい空間の創作意欲を抱かせるものだ。その私の熱狂と、多くの来館者の感覚を衝突させる試みが、近未来の博物館を一層豊かなものにしてくれるだろうと期待している。 ラオスに追う命 インドシナ半島内陸部の小国ラオス。この国に生きる命の一つにセキショクヤケイがある(図11)。赤い色の野の鶏と書いて、セキショクヤケイだ。セキショクヤケイは、地球全体に110億羽が存在するとされるすべての家禽ニワトリの祖先であり、ラオスを含む地域は、セキショクヤケイからニワトリを家畜として創出する出発点になった地帯である。 セキショクヤケイの家畜化はおよそ9000年前に始まったと考えられる。いわばこの地域はニワトリとヒトの命の交錯を演出した、自然と社会のゆりかごである。この地域の人々はセキショクヤケイが森を飛翔する姿を見、地を疾駆する様を目にして、山の命を認識してきたといえるだろう。いまもこの地にセキショクヤケイは分布を広げ、その甲高い金属音のような鳴き声が、ラオスの山には早暁から響き渡っている。 私はこの山で人類が9000年前から経験し続けたように、実際にセキショクヤケイの羽ばたきを見ている。そして、実際にその身体から命を認識するべく、ここに剥製を置くことにした。 セキショクヤケイは地味だが美しい鳥である(図12)。黒色に輝く羽毛に所々、白やメタリックグリーンが混ざる。頭部は黒い羽毛を背景にした鮮やかな赤褐色を呈する。生物学者は構造色だの何だのと論ずるだろうが、この色彩は言葉では語り尽くせないほどの美しさをたたえたものだ。こうした色鮮やかな羽毛は、この鳥を手元に置いて繁殖を操り、次第に用途を開拓し、ついには家禽のニワトリを成立させていく人間の強力な動機づけに結びついたことを確信させる。なぜならば、人間は美しい姿を具現化する命に、必ずや興味と関心を抱いたであろうから。 ラオスの緑豊かな自然を背景に、人類はひとつの麗しい命を、掌中に収めていったことと思う。私は、ラオスの村に入り、現地の人々と接し、その場の空気を吸いながら、セキショクヤケイを解剖し、剥製と骨を作り上げた(図13)。セキショクヤケイが生きる地で、死体から皮膚を剥ぎ縫い止めて剥製をつくる。そして、死体を鍋で煮て骨格に仕上げていく。その作業自体が、インドシナで命の源泉に直接触れる営みであった。ここ数年、数週間にわたるラオスの山でのセキショクヤケイの捕獲と死体からの標本づくりは、まさにインドシナの森での、私と命とのぶつかり合いだったということができるだろう。 一方、私は、世界中でニワトリを飼い、湧き上がる心のエネルギーのもとにニワトリを利用する人々を見るようにしてきた。 家禽のニワトリは単に食糧資源としてのみ育てられるわけではない。たとえば、鳴き声の美しさを楽しむ人々がいる。セキショクヤケイの鋭過ぎる声は、聞いていてけっして心地よいものではないが、それが例えば日本の伝統的なニワトリ、声良(こえよし)や小国(しょうこく)の飼育に見られるように、美しい声を愛でるという価値観すら生み出すに至る。 1000年前の日本文化においてなら、小国は時を告げ、一日の時間を刻む不可欠な道具にすらなり得ていただろう。また、ニワトリの命は、宗教や伝統や金銭欲や遊興とも遭遇する。たとえば、その流れで成立してきたのが、闘鶏である。東西問わず、飼育しているニワトリを“土俵”の上で戦わせ、後の時代のスポーツ観戦と共通した楽しみを享受するのは、闘鶏を支えるごく普通の庶民たちの動機である。 こうしたニワトリと人間の幅広い関係は、食糧生産の域にとどまらない。それは心の潤いを求めて、社会がセキショクヤケイに向けたエネルギーなのである。肉や卵として社会を支えることとはまったく別の形で、ニワトリの命は1万年近く人間の目と心に曝されてきたのである。 幸に私は、人間がセキショクヤケイやニワトリの命を見る目に接することができた。展示場に多数広げられているセキショクヤケイの剥製群は、人と文化が命を見続けてきたその証拠を展示空間に刻みつけるために在るといえる。 マダガスカルに追う命 南の海に浮かぶ進化の最前線、マダガスカル。ここは地球上でありながら、インド洋の只中に一億年近くも隔離された進化の実験島だ。 マダガスカル島は、島といっても、面積は本州よりはるかに大きい。大陸や島が地球のプレートに乗ったまま移動を続けているのはよく知られたことだが、中生代、つまりはまだ恐竜が世界中を支配していた時代に、この島はいまのインド半島とともに南半球の海の中にあった。アフリカとはすでに分離を終え、北へ向かってこの陸塊は少しずつ移動していった。途中現在のインド半島の部分は、マダガスカルを分離してさらに北上し、ユーラシア大陸の南の縁にぶつかる。陸続きになったインド半島はなおも北へ向かおうとしてユーラシアの土地を持ち上げ、ついにはヒマラヤ山脈を形作る。 だが、そのインド半島に棄てられた幸せなわがマダガスカルは、そのあとまだ何千万年もインド洋の島であり続けた。1億年近くもの間、時を止めた冷蔵庫のような世界だ。 その間にどこかに大きな隕石が落ち、恐竜は消え、大陸では鳥や獣たちが発展した。ずいぶん経過すると、ライオンやオオカミのような有能な肉食獣が大陸には現れていたが、それは一頭たりともマダガスカルには到達しなかった。草を食べて生きることにかけては誰にも負けないようなウシやウマの仲間がほかの大陸で幅を利かせるようになっても、そうした優れた草食獣が島に現れることはなかった。 南の海の、そんな極楽の島、マダガスカル。そこで、私が感じ取った命との出会いを二つ語っておこう。 一つは鳥の巨卵だ(図14)。この卵を世に送ったのはエピオルニスなる絶滅鳥だ。大ざっぱに3000年くらい前まで島に生きていたこの鳥が残したものは、400キロに達していたであろうという巨大な身体の骨(図15)と、長径35センチを超える、知られる限りは鳥類最大の卵だ。 捕食者が少なく、競争の緩やかな島の環境で、エピオルニスは飛翔能力を失い、ただ歩くだけの鳥に進化した。地上をもたもたしていても、この島にはエピオルニスを普段から襲うことのできる肉食獣は1頭もいない。エピオルニスは木の実や葉を食べたと考えられているが、そうした餌をエピオルニスから奪っていく草食獣は、島にはけっして出現しない。 そしてエピオルニスは巨大化の一途をたどり、当然それにつれて、恐ろしいほどの巨卵を産むようになったのである。 いま、巨鳥の誕生の場であった巨卵が、私の目の前にある。マダガスカルを席捲したであろうこの巨鳥の卵は、桁外れの命の在り様をいまに伝える。考古学的証拠は必ずしも明確ではなく、人間がマダガスカル島に初めて上陸したときにまだエピオルニスが生きていたのか、すでに絶滅していたのかは分かっていない。しかし、エピオルニスの絶滅後も、いくつかの卵は壊れずに残された。 アジアから島に小舟で渡ってきた人々は、エピオルニスが滅んだ後に、残された卵を見つけ出しては、それに家畜の血をかけて儀式を催したことが知られている。もし仮にエピオルニスの生きた姿を見ていなくても、人間はこの卵から、命なるものの特別の印象を受けとったに違いない。そして、いま私たちはこの巨卵に特異な命を認識することができるのである。 私たちは、鳥のビオソフィアなる展示で、一昨年にこのエピオルニスを展示室に飾ったことがある。来訪された方は、特段の思いをあの骨の模型と卵に感じられたかもしれない。1万キロ離れた島まで私が足を延ばし、好きな動物の解剖を続ける熱意には、いつもこの天涯孤独な島の住人、巨鳥エピオルニスへのロマンが根ざしている。 巨大猿の行く末 今日の展示場には、巨卵ならぬ、同じマダガスカルの島に生きた、同じく奇怪な命の形を用意することにした。私がマダガスカルで心打たれた次なる命は、メガラダピスである。 島にはいつの間にか、どこからかのルートで、キツネザルという原始的なサルが上陸していた。キツネザルは何千万年もの間、マダガスカルで進化を遂げた。樹上を跳びはねるもの、地上に餌を探すものなど、サルとはいえ多様な姿形と生態を獲得してきた。動物園でワオキツネザルやアイアイというサルを見ることができるが、彼らはその末裔である。他方、マダガスカルにアダムとイブを提供したはずの大陸の側はといえば、古いサルをいくつか残したものの、キツネザルに関していえば、存続を許さなかった。おそらくは研ぎ澄まされて優秀な肉食獣や、多彩な競争相手によって、追い詰められていったのだろう。 極楽の島に残されたキツネザルたち。島でのんびりと育まれ、ついにはおそろしく巨大化したものがメガラダピスである(図16)。推定体重80キロ以上。エピオルニス同様、残念ながら絶滅し、残されているものは骨だけだ。ただし、わずか1000年前くらいまで生きていたと考えられ、渡来した人間と共存した時代があったことも想定される。 現在見られるサルでメガラダピスのサイズを超えてくるのは、唯一ゴリラくらいのものだ。メガラダピスの出現は、さきの巨卵の主と同様、競争を忘れた隔離環境で、キツネザルの一部の系統が巨大化への道に踏み込んだ結果だと考えられている。ゴリラは巨体を利用して生活空間を樹上に頼らなくなり、暮らしを地面の上に展開した。メカラダピスは木の葉を食べていたと考えられ、樹上生活を捨ててはいなかっただろうが、その暮らしぶりを科学的に検証することは容易ではない。 現在見られるせいぜい体重5、6キロのワオキツネザルたちとは明らかに異なる大きさをもち、おそらくは大きく異なる適応様式に生きる形が、ここに完成されていったと考えられる。体重100キロを射程内に収めたキツネザルという、いまの地球に見出すことのできない命との出会いがここにある。相手はたかだか平安時代あたりには、島の住人だった相手だ。そう思えば、この命は、物言わぬ化石の採掘現場のものというより、仏像を懸命に彫った古の京の人々のそれに近い。まだまだ私には、この骨には血のにおいが感じられる。そんな頭蓋だ。 いまその巨大な命を展示場の片すみに設えることにした(図16)。化石で得られたメガラダピスは、しかし、かなり保存がよく、この動物が生きていたときの形や大きさをいまに伝え得るものだ。彫刻家の酒井道久氏と進化生物学研究所の吉田彰氏の尽力で作られたメガラダピスの頭蓋のレプリカが、存在を主張する。卓越した造形力のもと、メガラダピスはこの展示場に初めて姿を見せる。この巨猿のありのままの姿が来訪者に伝える命がいかなるものか、しばし私も皆さんの印象を聞かせていただこうと思う。 もう一つ、マダガスカルの命の例にテンレックという動物をあげておきたい。島の隔離された自然は、奇妙な形を次々と生み出していく(図17、18)。全身を棘で覆われ、一見すると、ヨーロッパやアジアに分布しているハリネズミによく似ている。しかし、テンレックは、巨卵や巨猿のように、隔離されたマダガスカルで何千万年も独自に進化の歴史を歩み、ハリネズミとはまったく別に島の中で作り出された動物群である。私はこの棘だらけの身体にメスを当て、ヨーロッパのハリネズミとは無関係の足跡を捜してきた。いずれはそこに、特異な隔離の進化史によって生み出された命の形が見えてくるに違いない。私がこのインド洋の棘だらけの命に見出そうとしているのは、悠久の時の流れなのだ。 解剖するということ 展示室で自己主張しているのは骨だけではない。解剖の場(図19-22)を少しだけ、この部屋に閉じ込めてみる気になった。 こうした解剖の場は多くの動物園や博物館との協力の中で生み出されてくる。たとえば、恩賜上野動物園、神奈川県立生命の星・地球博物館、神戸市立王子動物園、国立科学博物館の人々に支えられて、命との対面の場がつくられてきた。私は、解剖に理解を示してくれる多くの人々への感謝の気持ちでいっぱいである。 展示室には解剖の際に使えそうな机や道具が置かれている。リアリティを追求するなら、もっと高価で優雅な道具が、現実の場面には置いてある。また実際には、解剖を行うのは個人であって、個人が使い込んだ自分だけの大切な道具こそが、解剖を成功に導く。そういう意味では、この空間はゼロからの演出なのかもしれない。ただ、この空気は、2000年前のアリストテレスの時代にも、500年前のレオナルド・ダ・ヴィンチの時代にも、150年前のダーウィンの時代にも、人間が命を真剣に見てきた場のものである。それはきっと今日も命の認識の空間で、無視できない影響を人の心に与えている。だからこそ、この展示は、命展には不可欠なのだ。刃物や鋸、どちらかといえば大工道具に近い物体の数々からは、ときに好奇心を、ときに畏怖を、ときに恐怖を、ときに意外性を感じとることができるかもしれない。人によっては、非日常のおどろおどろしさを、これらの物に印象づけられる可能性もあろう。 私は、解剖の場の大切さをすでに理解している人のみならず、そこに戸惑い、時にネガティブな感覚をもつ社会の人々とこそ、命について議論したいと思う。なぜならば、科学的好奇心が死を前にして爆発するとき、必ず人間は、死体に鋸を当て、皮に刃を刺し、筋肉に鋏を入れているからである。言い換えれば、解剖学が、そして解剖学者が腕をふるうとき、社会の大多数の人々は、そこに目をそむけてしまう必然性があったといえる。だが、私の命の認識は、そこを避けて通ることはない。あらゆる人々と、死体を見る気持ちを分かち合いたいと切に思うのだ。 ちょっと生臭い工具のとなりに、不釣合いに整った冷凍庫を登場させてみた。解剖学者が命を認識するとき、それはつねに腐敗との闘いでもある。アルコールに沈める、塩に漬ける、などの一連の方策の中で、最も単純なのは、冷やす、という手法だ。ご覧の通り、どこにでもある大工道具が活躍するように、どこにでもある普通の冷凍庫が幅を利かせる。 解剖の現場では、実際には、この冷凍庫と解剖台の上を、死体は何往復もする。腐らせずに形を把握し、科学的データを採るために、この往復の作業がもっとも有効なのだ。解剖には、最低限に絞り込んだとしても、実際にピンセットを当てている時間と、形態を記載している時間を要し、その間には形を科学的に解析している時間が必要となる。そこで、低温で防腐しながら所要時間を稼ぐのが、冷凍庫の力の見せ場だ。展示でここに用意される死体はタヌキ、アナグマ、ハクビシン、キリン、ニワトリ、イノシシなどの予定だ。私はやはり彼らに、この冷凍庫内で文字を与える考えはない。凍てつき、霜に覆われた解剖体から命を感じ取るのは来訪者の自由であり、苦悩であるからだ。 死の誕生 文字を棄てた展示場の入口では、端から命と切り離された二つの被造物が静かに存在を主張してくれるはずだ。「命の認識」展で、冒頭に両者が現れる理由は、死を誕生ととらえる私の世界観からでしかない。 飾り気のない矩形のアクリル槽から、来館者の表情をのぞき見るのは、とあるゾウとキリンの死産胎子である。元より命のないまま産み出されたこの胎子から、来訪者はいかなる命を認識するに至るだろうか。 2体の死産胎子は、いずれも神戸市立王子動物園から譲っていただいたものだ。ひとつはアジアゾウである(表紙)。 ゾウが飼育下で交尾や妊娠に成功する例は近年少しずつ増えつつある。しかし無事出産に至ること、そして、離乳から成長を経過するには、さらなる飼育上の困難が伴ってくる。この胎子は、そうしたおとなにならなかった数多くの命を代表するかのように形にしつつ、いま、展示室の空気を占める。 2002年1月11日死産。体重135キログラム。身体の大きさを見るならば、すでにアジアゾウの新生子の大きめのサイズに達しているので、あと一息でこの世に生を受けていたことは間違いない。しかし、たとえその希望がかなわなくても、命展はこの死体を命として認識していくことのできる場である。来訪者の感じる命がいかなるものであるか、私も熟考の時間をとりたい。 多少の血液・体液は抜けたといっても、小兵力士くらいの重さのある塊だ。移動も苦心の末の作業となった(図23)。だが、いま無事に展示場に居座るこのゾウを見て、死体や標本はただの物品ではないことには万人が思い至るだろう。このゾウを見て、神秘でも畏怖でも謎でもときには嫌悪でも、多くの人に命を源泉とした特異な感覚が生まれるとするなら、命展はまたひとつの出発点を獲得したといえるのである。 他方、ゾウの上手で同様に固定されたタンクから来訪者を見すえるのが、キリンの同じく死産胎子だ(図24)。譲って下さったのも、同じく神戸市立王子動物園の方々である。2009年7月13日死産。体長210センチメートル。すでに人間の身長を超える長さに育っているが、これでも標準的な新生子の大きさである。解剖を進めながら、どうすれば展示場で存在を自己主張してくれるのか、院生の森健人さんが思案したものだ(図25)。四肢は別途骨格標本化を目指しているので、この展示では、頭部から頸、胸、腹、腰、そして尾部までの列を見せている。解剖が進みつつあるので、背骨が何か所かで関節を外されている。展示室では分離部分を近づけて一続きの状態を頭の中で想起できるように配置を考慮してみた。いまさらながらに、頸部のプロポーションの大きい動物であることに気づくだろう。実際には伸長した四肢がとても大きいだけに、四肢を外した状態で見ると、とりわけ頸の長さが目に入ることだろう。当初の解剖で頭蓋を開き、脳を摘出してあるので、頭頂部にも注目してみてほしい。 命展の行方 展示場にはもう一つ、ディスプレイを1台だけ置くことにした。そこには台上に置かれた標本群のいくつかが写真として残されている。台によじ登ってあの骨を引っくり返したい、というひょっとして生じるかもしれない命の認識に熱狂する人物に、わずかばかりの二次元の骨の影を見せる細工だ。同じ写真でも、壁に貼られて空間を作っているものとはまた異なった迫り方を見せてくれることだろう。動きを極力廃した展示場に、若干の“かたちの補足”が成立していると考えていただければ幸いである。写真のいくつかが、来訪者の命の認識の一部分だけでも、別の角度から支えられればそれで十分である。 さて、残念だが、展示場は近い将来確実に撤収される。写真ないしはデジタルデータに残された展示空間が、その後の世の中に何かの影響を与えると考えるのは、虚しい空想だ。創造に対する怖れを知らぬデジタル技術者たちの無知とは無関係に、創られた展示空間は、名優の演劇の舞台と同様に、二言なく、そのときを生きるのみだ。 ただひとつ、命展は、それがそこで来館者の心の隅に入り込み、人間の数だけ命の認識を組み替えたかもしれないという、小さな制作者の恥じらいと悦びとともに、どこへともなく消え去る。
会 期:2009年12月19日(土)〜2010年3月28日(日) 休 館 日:月曜日(ただし1/11・3/22は開館)・12/24・12/29−1/3・ 1/12・1/16・1/17・2/12・2/25・2/26・3/23 開館時間:10:00−17:00(ただし入館は16:30まで) 会 場:東京大学総合研究博物館1階展示室 |