松本文夫
(本館特任准教授/建築設計・
情報デザイン)
総合研究博物館では2009年度から「映像」に関わる教育活動や実験展示を実施してきた。博物館工学ゼミ「映像制作プロジェクト」、学芸員専修コース「映像博物学の挑戦」、実験展示「IMAGINARIA―映像博物学の実験室」である。本稿ではこれらの活動の実践経過を振り返るとともに、ミュージアムにおける映像活用の可能性について考える。
西野嘉章館長が主宰する博物館工学ゼミでは、2009・2010年度に「映像制作プロジェクト」が実施され、学生らが自ら映像制作に取り組んだ。企画構想から撮影編集までの制作過程を体験し、その成果を博物館に映像コンテンツとして蓄積することを目的としている。同ゼミでは年間に3つの映像制作課題が課された。第一に本郷キャンパスを題材とした作品、第二に総合研究博物館の展示やイベントを記録した作品、第三に「言語と映像」を背景テーマとした作品である。大半の学生にとって映像制作は初めての経験であるが、試行錯誤を繰り返しながらそれぞれの作品を完成させた。課題をもとに世界を観察し、自身の着眼からイメージを膨らませ、カメラを通して現実を切り抜き、編集ソフトで縦横な再構築を行う。
同じ課題であっても、その作品内容はことごとく異なる。たとえば第一課題では、本郷キャンパスを舞台とした現実と非現実が共存するドラマ(「鯵」田中ゆり)[103]([ ]内の数字は図3のサムネイル番号を示す。以下同様)、三四郎池周辺の生物を博物学的興味から接近描写した作品(「池」太田泉フロランス)[101]、キャンパス内の自然環境をネコの視点からとらえ直した作品(「The Kingdom of Cats in The Rain Forest」宮川麻紀)[109]などがある。第二課題では、「FANTASMA―ケイト・ロードの標本室」展の記録として、小石川分館各所の残像的なショットの連鎖を構成した作品(「場所の記録」高野渉)[110]、編集ソフトによって同展示空間を全く別種の輪郭表現に還元した作品(「Drawing of Objects−Artifact and Art」横山キャサディさくら)[111]などがある。第三課題では、同じシークエンスの映像に対して全く異なる言語表現を与えた作品(「Crooked」大川祐矢、太田泉フロランス、田川裕貴)[105]、作者自らが描いたデッサンによって2人の女性の無声会話を表現した作品(「Lent Et Douloureaux」塩川幸)[112]などがある。
映像制作プロジェクトの実践を通して感じたのは、映像には作者の「世界の見方」が如実に表現されるという当然の事実である。作者の個性を前面に出す場合はもちろんのこと、恣意性を排除した客観的な描写を志向したとしても、カメラワークやデュレーションの設定に作者の見方が反映される。したがって映像作品の講評とは、視聴する立場からの「世界の見方」の交感的提示にほかならず、困難を極めることも少なくない。対象をいかに見るかというバイアスをかけることが映像の醍醐味であり、双方が理解しておくべき前提となる。
学芸員専修コースは、本館で毎年実施されている博物館等の専門職員向けの教育プログラムである。平成22年度学芸員専修コースでは「映像博物学の挑戦」というテーマが設定された(2011年11月8日−12日開催)。題目にある「映像博物学」とは、資料および手段として映像を活用する博物学であり、専修コースの募集要項では以下のように説明している。「宇宙規模に拡大する事象を記録する手段として、また近代以降の人間活動の研究対象そのものとして、映像は極めて重要な存在である。すなわち、映像技術を活用した博物学と、映像自体から世界を探求する博物学がともに立てられるべきである。これらまとめて「映像博物学」と称する・・・」 当専修コースには全国の博物館・美術館から13名の学芸員らが参加し、ミュージアムにおける幅広い映像活用の可能性について講義と演習を通して実践的に学習した。
5日間のコース日程のうち、前半2日間は各分野の専門家による講義を、後半3日間は映像作品の制作演習を行った。以下に前半の講義の概要を記す。映画作家の河瀬直美先生は「世界と繋がる映画表現と制作への想い」と題し、自身の作品制作を振り返りながら、制作現場における人間と場所のつながり、「生きる自分」と「つくる自分」の共存について話をされた。本館の遠藤秀紀先生は「博物映像表現論」と題し、失敗を恐れず自由に表現することの重要性を特撮事例の話などを交えながら説き、これから制作演習に入る受講者たちに対して表現者としての根本意識の覚醒を促された。東京国立近代美術館フィルムセンターの岡田秀則先生は「映画のアーカイビング」と題し、物理的なモノとしての映像の特質、映画の収集保存に関する制度と技術の歴史、フィルムアーカイブの実際の取り組みについて説明された。マンチェスター大学の川瀬慈先生は「映像人類学―民族誌映画の課題と展望―」と題し、民族誌映画の制作方法論の歴史的変遷について論じ、客観的な観察に徹する手法から、対象との相互交渉を介する新たな手法に至る展開を説明された。本館の宮本英昭先生は「探査機の画像と太陽系博物学」と題し、太陽系探査における高解像度画像による遠隔観測の驚異的な進展、探査機による映像の取得・解析の流れを紹介された。本館の松本文夫は「映像博物学概論」と題し、メディアの歴史から映像の起源を振り返り、映像と博物学の歴史を並行させながら映像博物学の可能性と課題を論じた。また「映像制作概論」では、撮影・編集・演出・空間という4つの切り口からさまざまな映像制作手法を示し、実際に映画断片の上映を行いながら説明した。
コース後半の制作演習では、「映像博物学」をテーマとした5分程度の映像作品の制作が行われた。ビデオカメラ等の制作機材のほかに、博物館の学術標本40点以上が撮影素材として準備され、受講者は2つのチームに分かれ制作作業に取り組んだ(図1)。3日間という極めて限られた期間であったが、受講者らの驚異的な集中力と熱意によって以下の2つの作品が完成した。「GATHER」(井口芳夫、石田惣、上野恵理子、王輝、沓沢博行、浜崎加織)[301]では、道端でドングリが拾われ、タグを付して整理分類され、博物館の展示物になるまでの過程が描かれた。タグがつくことで博物館の資料になるという原イメージが示され、メンバー紹介やエンドロールもタグによって表現された。もう一つの作品、「ルツボからこんにちは」(秋山和彦、井波吉太郎、宇野淳子、祖敷彩、塚田美紀、原田明夫、山下俊介)[302]では、博物館のバックヤードの堆積と混沌と闇の中から新たな標本が立ちあがるまでが描かれた。作品の基本的な流れを図化して共有し、多様な視聴覚要素を独自の「手動編集」によって共同構成した。
学芸員専修コースの映像制作に立ち会って感じたことは、映像が人やモノを「つなぐ」メディアであるということである。整然と区分された制度体系の中から、モノとモノ、モノと人、人と人の新たな関係を発生させることは容易ではない。しかし、映像はそれらを横断的につなぎ、新たな構造や意味を付与し、作品として構築的にまとめることができる。映像を介して「世界を見る」という体験を皆が共有することで、新たなステージの共同作業が可能になる。制作演習の現場で起きていたのは、まさにそのような熱気に包まれたコラボレーションであった。ミュージアムに映像を導入することの本質的な意義は、このような連携促進の力にあるのかもしれない。
博物館工学ゼミと学芸員専修コースにおいて映像作品が制作されたことを受けて、小石川分館で上映機会を設けることになった。それがインターメディアテク・プレイベント「IMAGINARIA――映像博物学の実験室」という実験展示として実現した(2011年2月18日−27日開催)。IMAGINARIAとは、実在物と映像が共存する「イメージの融合空間」のことである。通常の上映会のようにホワイトスクリーンで集約的に上映するのではなく、建築空間の特性を活かして「映像を空間的に展開する」ことを目指した。小石川分館の常設展示の各所に映像を組み込み、実在物と映像の相互関係から特徴的な「場」が生み出されることを期待した。また、その試みの一環として、隣接する小石川植物園の庭園で映像投影を行った。館内外に大小15台のプロジェクタを設置し、合計64の映像作品を上映した。
この展示で上映されたのは、研究者、学芸員、映像作家、学生らによって制作された映像作品である(図3)。博物館工学ゼミや学芸員専修コースの作品も上映された。本稿で全てを紹介することはできないが、ウェブで公開されている展示リーフレットの作品解説をご参照いただきたい。http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/IMAGINARIA_leaflet.pdf 2月18日にオープニング・セレモニーを行い、映像評論家の西嶋憲生先生(多摩美術大学教授)と西野嘉章館長のダイアログ「映像・記憶・表現―20年の空白のあとに」で幕をあけた。ここでは、西野館長が1972年に制作した「喪失された
<君>もしくは<あなた>を探していく旅は」[201]を上映しながら、両者の20年におよぶ空白を遡る対話が繰り広げられた。また、筆者は本展のために「musescape」[202]を制作した。これは総合研究博物館の学術標本の映像博物誌であり、存在物のフォルムやテクスチャの多様性を緩やかな時間変移の中に表現したものである。
展示場所と上映作品の概要は以下の通りである(展示場所については図2、会場写真は図4〜7を参照)。小石川分館外壁(A)では、展示のエントランスとして上映中の作品をピックアップして大型プロジェクタで投影した。1階北展示室(B)では、歴史的建造物の展示空間に東京の都市イメージを描いた学生作品を投影した[701−708]。1階南展示室(C)では、大きな地球儀に世界各地の建築都市の写真画像を重ねて投影した[205]。2階解剖学の部屋(D)では、人体模型が並ぶ壁面に学芸員専修コースの作品[301,302]、他のミュージアムの作品[402−404]、映像人類学者・川瀬慈氏の作品[501]を投影した。2階廊下(E)では、吊り下げられた10枚の薄布を射抜くように動物行動の映像を投影した[601−622, 405,406]。中央階段(F)では、踊場壁面に博物館工学ゼミの学生作品を投影した[101−115]。2階標本展示室(G)では、東京大学教員の作品[201−204,207−209]や東京国立博物館の文化財3次元映像[401]を投影した。2階最奥展示室(H,I)では、直径1Mの半球鏡を床に置き、2台のプロジェクタからの映像を部屋中に反射させて映像に囲まれた空間を形成した。2階テラス(J)では、小石川植物園の夜の庭園に向けて動物・植物・文化財等の映像を大型プロジェクタで投影した。また、館内5ヶ所(M)に超小型プロジェクタを設置し、動物行動の映像[601−622, 405,406]や映像作家・原田明夫氏の作品[502]を投影した。この超小型プロジェクタを手に持って映像を投影しながら夜の博物館を歩き回るイベント「プロジェクション・ウォーク」を開催し、来館者の好評を博した。
実在物と映像が共存するイメージの融合空間をIMAGINARIAと呼んだ。本展示の実践を通して感じたのは、博物館内部に限らず多様な社会環境の中にIMAGINARIAが存在しうるということである。映像を現実空間と重ね合わせる手法は、マクロにもミクロにも展開できる。マクロの手法とは、映像を広く都市空間で活用することである。ヨーロッパでは歴史的建造物等に映像投影を行うアートイベントがしばしば開催される。都市空間の中に一時的であれ映像による「場」が形成されるなら、ミュージアムはもはや映像として存在可能である。都市広場や学校施設等、人が集まる場所は映像によってミュージアムに変容させることができる。一方、ミクロの手法とは、映像をモバイル機器に入れて持ちだすことである。本展で使用した超小型プロジェクタのほかに、デジタルカメラや携帯電話にも映像投影の機能を持つものがある。個人が映像を持ち歩くことによって、映像を介した人間同士のコミュニケーションが発生する。携帯可能なミニマルなミュージアムということになろう。「映像の空間的な展開」については今後も検討を続けていきたい。
一連の映像制作において参加者から聞かれたのは、「映像をつくることが楽しい」という感想である。カメラをもって歩くだけで、漠然と眺めていた現実空間が生き生きと見えてくることがある。映像によって「世界を見る」という体験は、映像を通してそれまで無関係だった人やモノを「つなぐ」試みに発展する。映像がもつこのパワーをミュージアムに活かすことが重要であろう。ミュージアムにおける映像の具体的な役割は「収集/保存する資料」と「記録/表現する手段」という2つの側面から考えられる。両者の関係は表裏一体のものである。映像博物学は、映像技術を活用して世界を記録/表現し、同時に、収集/保存された映像資料から世界を探求する営みである。それは、人間が「世界を見る」という知の根底を映像によって再編し、「世界の記憶」を映像によって創造する試みになるだろう。
最後に、本稿で紹介した教育活動や実験展示でお世話になった方々に深く感謝を申し上げる。
IMAGINARIA―映像博物学の実験室/クレジット
・企画制作
スーパーバイザ:西野嘉章、企画構成:松本文夫、映像協力:東京大学総合研究博物館、制作協力:上野恵理子、博物館工学ゼミ、建築ゼミ、分館ボランティア
・展示協力(作品提供)
東京大学大学院理学系研究科附属植物園、東京国立博物館、世田谷美術館、多摩六都科学館、大阪市立自然史博物館、日本動物行動学会、動物行動の映像データベース、西野嘉章、矢野勝也、邑田仁、川瀬慈、原田明夫
・特別協賛
エプソン販売株式会社