矢後勝也
(本館特任助教 昆虫体系学・保全生物学)
秘境・ブータンには、約80年もの間、再発見されていない極めて珍しいチョウが生息する。世界最後の“幻の大蝶”とされるアゲハチョウの1種、ブータンシボリアゲハである。1933年と1934年に英国人探検家(プラントハンター)のF. LudlowとG. Sheriffによってブータン東部のタシヤンツェ渓谷で採集され、1942年にA. G. Gabrielにより新種として記載された。この時のわずか5頭の標本が大英自然史博物館に所蔵されているのみで、これまでヨーロッパを中心に多くの研究者がこのチョウの再発見に挑んできたが、誰も成功することなく、それ以降の追加記録は一切途絶えていた。また、このチョウは単に珍しいだけでなく、その翅の模様の美しさから“ヒマラヤの貴婦人”とも呼ばれ、チョウの研究者や愛好家からは長く「聖杯」のように崇められていた。
2004年の春、私はシジミチョウ科のタイプ標本調査を目的としてロンドンの大英自然史博物館に滞在していた折、この館内に保管されている伝説のブータンシボリアゲハ標本を閲覧、撮影にする機会に恵まれた。シボリアゲハ属は本種の他、シボリアゲハ、シナシボリアゲハ、ウンナンシボリアゲハの計4種で構成されるが、その中でもブータンシボリの大きさは際立っており、圧倒的な迫力が感じられた。
この崇高なチョウの実物標本を目にしてから約6年半後となる2010年の秋、前年のブータンでそれらしきチョウが現地の森林保護官により撮影されたという情報が、国内外の一部の研究者や愛好家の間に広がってきたのである。この情報を元に、私も含めて何人かの関係者が裏付けを進め、ついにブータン政府との交渉に入った。ブータンは生物多様性保全を大きく掲げた環境立国であるため、このような調査許可を得るのが大変難しい。しかも私たち以外に申請した海外の研究者もいると聞く。政府と長い交渉を重ねた結果、ついに調査の特別許可が下され、私を含む日本蝶類学会メンバーで構成された調査隊6名とNHKのスタッフ3名の日本側計9名、ブータン政府農林省のメンバー5名からなる「ブータンシボリアゲハ共同学術調査隊」を結成することができたのである。
隊長は日本蝶類学会理事の原田基弘氏で、これまで数々のチョウの幼生期を発見してきた生活史解明のエキスパートである。その他の隊員構成は日本蝶類学会名誉会長だった故・五十嵐邁博士の奥方の五十嵐昌子氏をはじめ、進化生物学研究所の青木俊明主任研究員と山口就平主任研究員、昆虫写真家の渡辺康之氏など、数多くの海外調査を積み重ねてきた歴戦の雄である。その他にNHKスタッフの斎藤基樹記者、内山 拓ディレクター、森山慶貴カメラマンが日本側の調査隊メンバーである。このような中、私は若年にも関わらず、恐縮ながら副隊長という立場で参加することとなった。
開張12cmほどもある大きなアゲハチョウが再発見されないのには、それなりの理由があるはずである。人目に届かない高い空間や原生林を飛翔するか、元々の発生する個体数が少ないか、よほど狭い地域にしか生息していないか、あるいはこれらの複合要因か、などが考えられるであろう。幼生期のなどの生態解明も興味が湧くところである。
これらの実態を確認すべく、今年の8月初旬から1ヶ月間、私たちは本種の再発見および生態解明に乗り出した(図1)。そして、8月12日、ついに隊員の青木主任研究員の手により第1頭目を採集することができた。奇しくもこの日は78年前にLudlowらが初めて本種を発見した日でもあり、因縁めいたものを感じずにはいられなかった。この翌日、幸運にも第2頭目となる個体を私が採集することになる。深谷をバックに高さ5メートルの所を飛ぶ個体が近づいてくると、じっと狙いを定めて網を振り、素早く網を下ろした。中にうごめくものが見え、ゆっくり網に手を入れる。震える指を抑えながらチョウをつまむ。崇高な“ヒマラヤの貴婦人”に初めて触れた瞬間であった。その後はやや苦戦を強いられるも、やがて全員が網に入れることができた。これにはすばらしいポイントを発見された山口主任研究員の功績が大きい。その後、原田隊長の活躍もあり、本種の特殊な生活史の一部も解明することに成功した。世界的な保全先進国でもあるブータンだが、ブータンシボリアゲハの再発見を機に、このチョウを国蝶に指定して、貴重な野生動植物の保全の象徴として進めていく計画もすでに出ている。
ところで、なぜブータンシボリアゲハがあの狭い場所にしか生息していないのか、どのような過程でその集団は形成されたのか、という進化学的、生物地理学的に興味い現象が、この地域には秘められている。おそらく同様な経過を辿って生じた他の驚くべき固有の生物があの場所には生息していると考えられる。つまり、このチョウには単なる貴重な昆虫の存在だけではなく、独特なヒマラヤ生物相の形成過程における重要なヒントが隠されている可能性がある。研究できるサンプルなどが得られれば、今後は形態の研究と遺伝子解析からこの謎を解き明かしていきたいと考えていたところ、思わぬ出来事が起きたのである。
このチョウは国際取引に関わるワシントン条約附属書IIに掲載されており、基本的に輸出入が禁止されている。許可内で採集した5頭のうち、実は2頭の輸出許可申請を提出したまま私たちは帰国していた。ブータンではワシントン条約種の輸出許可を下ろす場合、閣議決定が必要だそうである。そのため、これらの標本の日本への持ち込みは半ばあきらめていた。ところが、帰国して2ヶ月半後の11月15日、国賓で日本を訪れたブータンのワンチュク国王夫妻が、来日に合わせて2頭のブータンシボリ標本をお運び頂き、東京大学総合研究博物館と進化生物学研究所に贈呈されたのである。贈呈式は赤坂迎賓館で行われ、国王陛下の側近の方から授与された(図2)。標本が収納されている箱も手作りの豪華なもので、外箱には雷龍と王室家紋の刺繍、内箱には同様の彫刻が施され、“A Gift from the People of Bhutan(ブータン国民からの贈り物)”という字も彫られている(図3)。また、箱の中には国王陛下のお名前の入ったカードと“With the Compliments of His Majesty The King of Bhutan(ブータン国王陛下からの贈呈)”と書かれたカードが添えられていた。日本とブータンという国家間の友好の証とともに、東日本大震災を被った日本人への復興の願いも込めてご寄贈頂いたようである。そのため、このチョウの標本は単なる希少性や学術的価値に留まらず、国家間の親交の象徴として計り知れない価値のあるものとなった。“絆”を表す国の宝として、大切に保管、管理し続けていきたい。