佐々木猛智
化石と古生物学
かつて、遺伝学者の木原均博士は「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に刻まれている」という言葉を残しました。我々は過去の歴史を直接見ることはできず、そのため、現在地球上に存在している物証から過去を推定する研究を行うことになります。それは、地球科学、生物科学のすべての分野に共通する部分があります。
古生物学とは、古生物、すなわち地質時代に存在していた生物を研究する学問です。大半の古生物は既に絶滅しており、我々は化石(図1)を通じて古生物の存在を知ることができます。化石は地層中に残された古生物の痕跡であり、生命の進化を記録する直接的な証拠となります。
化石と古生物という言葉は類似しておりますが、区別が必要です。化石は地層中に残されたものを指し、実在するものに対して使います。一方、古生物は過去の生物全てを指しています。かつて存在した古生物のうち、地層中に残されたものを化石として認識することができます。
化石の研究は、地層の研究と結びついており、地質学の一分野として始まりました。しかし、後には化石を生物の視点から研究する生物学的古生物学が勃興します。東京大学では1960年代からその分野に興味を持つ研究者が現れ、1970年代以降その試みが開花し、1980年代以降は完全に定着します。明治以来の東京大学の古生物学の歴史を、本館の収蔵標本をもとに紹介することが特別展「東大古生物学?130年の軌跡」の目的です。
古生物学の2つの立場
古生物学には2つの異なる立場があります。地質学的古生物学と生物学的古生物学です。東大の古生物学は地質学的古生物学から出発し、後に生物学的古生物学に方向転換した歴史を持っています。
地質学的古生物学は化石の研究を地質学に応用する立場を指します。化石は地層に含まれており、地層の一部を成しています。従って、化石を研究することにより地層の成り立ちを理解することができます。特に、地層の年代決定は、化石に基づいて比較する方法から始まりました。同一種の化石が離れた場所から産出した場合、それらの地層はほぼ同じ年代と見なす方法です。現在は、年代決定は化石を用いない手法も発達していますが、化石の情報を合わせて考察することが重要であることは変わりません。
一方、生物学的古生物学は、古生物を生物として見る立場を表します。化石は今となっては石と化していますが、かつては生きていました。従って、絶滅種の食性、成長様式、寿命、繁殖様式、生息環境、行動様式などの特徴を推定する研究分野が成立します。ただし、このような生物としての特性は、化石をただ眺めるだけでは解明できません。生物学的古生物学では、現生の生物を詳しく研究して法則性を検討し、それを化石の形態の解釈に応用することで生物としての特徴を解明しています。
古生物学の成立
古生物学の出発点は、化石とは何かという考察から始まりました。アリストテレスやレオナルド・ダ・ビンチも化石についての考察を記していたことが知られています。しかし、学問としては19世紀まで実質的な進歩はほとんどみられませんでした。
歴史的には、化石が過去の生物の痕跡であるとの理解が成立するまでには長い時間を要しました。特に西洋では、地球上のあらゆるものは偉大な神の創造物であるとする「創造説」、化石は神の起こした大洪水の犠牲者であるとする「洪水説」など様々な考えが宗教と結びついて受け入れられてきました。しかし、科学の発展とともに化石は過去の生命の痕跡であるとの認識が成立します。
化石についての認識が未成熟な時代の有名な話として「ベリンガー事件」があります。ドイツのビュルツブルク大学のベリンガー教授が、人工的に細工をした偽物の化石をつかまされ、月、太陽、星の形の偽化石までも自然の力でできたものと思い込み、それらを1726年に図集として出版しました。しかし、後に自分の名前が彫られた石を発見してだまされたことに気がついたという逸話です。
しかし、日本では、古生物学が導入された時には、初期の段階から化石が過去の生命であるとの認識は受け入れられました。江戸時代は鎖国時代でしたが蘭書の和訳を通じて西洋の科学が輸入されていました。そして、日本には宗教と生物の進化の解釈の間に齟齬が生じなかったため、化石に対する認識に大きな問題は生じませんでした。
東大古生物学の歴史-戦前まで
東京大学の創立は明治10年(1877年)です。日本の古生物学の歴史は東京大学から始まりました。後に日本で2番目の地質学教室が創設されたのは、東北帝国大学で、大正元年(1912年)のことです。従って、36年間、東京大学は古生物学を研究し教育する唯一の大学でした。130年以上古生物学の研究を継続して行っている大学は日本には他にありません。
古生物学は生物学ではなく地質学の一分野として出発しました。このことが後にまで影響し、生物学の教室と古生物学の教室が別組織に属しているのは世界的な傾向です。日本はドイツから古生物学を導入し、東京大学ではお雇い外国人の教授としてドイツ出身のナウマン、ブラウンス、ゴッチェの3名を雇い入れました。そのため初期の研究者はすべて卒業後ドイツに留学しています。
明治時代は東京大学の古生物学者(図2)の数は非常に少数でした。学生時代は化石を研究していてもその後は地質学に転向した研究者もありました。そのため、明治時代に出版された古生物学の論文は英文、和文を合わせて84編という乏しいものでした。
しかし、その後大正時代に入ってから研究者の数は増加します。論文数も170編へと増加しました。研究者の数が増えたことにより研究のスタイルも変化しました。明治時代は人数が少ないため、化石であれば何でも研究しなければならない時代であり、貝類や哺乳類や植物を一人の研究者が研究することもありました。時代も様々で古生代から新生代まで広く研究していました。しかし、大正時代に入ってからは、プロの研究者は特定の時代と特定の分類群を研究する傾向が強まります。
戦時中の危機
東京大学の古生物コレクションは過去に何度も危機にさらされてきました。関東大震災では大学の建築物が崩壊しましたが、コレクションは生き延びました。最大の危機は太平洋戦争です。
戦時中、東京は空襲の危険が高まり、実際に現在の総合研究博物館の付近にあった旧前田家の邸宅(懐徳館)は1945年3月10日の東京大空襲で全焼しました。標本と一緒に教室全体が疎開することになり、山形県大石田町に疎開します。関係者が総出で標本を木箱に詰めて貨車で送り出しました。その当時は現在のような便利な梱包材もありませんので、木くずを標本の間に詰めていました。疎開作業の苦労は大変なものであったと言い伝えられています。
古生物学の教室は1946年の春に本郷キャンパスに復帰します。この間の困難な状況は、論文の出版数の変遷を見てもよく分かります。1940年11編、1941年19編、1942年21編の後は減少に転じ、1943年12編、1944年12編、1945編3編、1946年は1編の論文も出版されず、1947年に9編が出版されて以後は立ち直ります。
標本の登録作業は1948年から再開されました。この時に整然と体系立てられた方法で整理が始まったこと、そしてそれがその後も途切れずに続けられたことが現在の地史古生物部門のコレクションの基礎となっています。
戦後の東大古生物学
戦後しばらくは、伝統的な記載分類学と生層序学の研究が続いていました。その当時の地質学にとっては、地質図を書くことが重視されており、地質学に直接的に貢献しない研究は顧みられませんでした。1950年代までは実質的に大きな変化はなく、それは世界共通の傾向でした。
しかし、1960年代より、化石を生物の立場から研究する生物学的古生物学が勃興します。コンピュータを用いて古生物の形を解析する研究分野(理論形態学)は1965年に確立しました。そして、1970年代に入り、生物学的古生物学の発展が顕著になり、米国でPaleobiologyという専門雑誌が創刊されたことがその隆盛を決定づけます。
生物学的古生物学の発展には米国が重要な役割を果たしました。東京大学でその影響を受けるのは、貝形虫類の研究のために米国に留学した花井教授の時代に遡ります。花井教授はご自身の研究は地質学的古生物学として出発されましたが、後進の研究者には生物学的古生物学の重要性を説かれ、それが1970年代以降に実を結びます。
花井教授の次世代の研究者である速水教授は、生物学的古生物学の路線を引き継ぎ、変異の解析、生活様式の解析、機能形態学、理論形態学、情報古生物学、生きている化石、古生物地理学など幅広い生物学的古生物学の研究を展開されました。このことが東大古生物学のその後の方向性を決定づけました。
最近の東大古生物学の特徴
1990年代以降、最近20年の研究は、生物学的古生物をさらに推進する方向で進められてきました。ミトコンドリアDNAを用いた系統解析(分子系統学)、分岐分析を用いた系統解析、Hox遺伝子の配列比較、殻内タンパクなどの研究も1990年代から始まりました。現在では、形態形成遺伝子の機能解析、分子系統解析と化石記録の照合、古脊椎動物の比較解剖学・機能形態学、貝殻の成長線、貝殻微細構造などの研究が進められています。生痕学、古生態学の分野も次世代の研究者が育っています。
古生物学は地質学にも生物学にもまたがり、全分野をカバーするのは容易ではありません。各大学の古生物学には特色があり、得意分野と不得意分野があります。東京大学の伝統のひとつは、軟体動物を用いた研究です。古生代から現生まで非常に多くの論文を出版し続けてきた歴史があり、総合研究博物館が所蔵する古生物標本の7割以上が軟体動物で占められています。研究手法の観点では、国内で最も初期に理論形態学の研究が始まったこと、分子生物学の手法を早期に取り入れたことが特色です。
過去の歴史を振り返ると、初期の頃には古生物学者の数は少なく、地質学の一角をわずかに占めている状態でした。しかし、大正時代以降は研究者も増加し、1960年代以降は学位取得者が多くなり、特に最近は毎年博士号取得者を輩出しています。そして近年では日本における生物学的古生物学の拠点としての役割を果たしています。以上のように、東京大学の古生物学は大きく変化しながらも130年以上途切れることなく続いており、今後もさらなる発展が期待されています。
(本館准教授/古生物学)
会 期:平成24年10月6日〜平成25年1月11日 休館日:休館日:月曜日(ただし10/8、12/24は開館)、 10/9、12/25、12/28〜1/4 開館時間:10:00〜17:00(ただし入館は16:30まで) 会 場:東京大学総合研究博物館1階特別展会場 |