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東京大学総合研究博物館ニュース ウロボロスVolime17Number4



海外モバイル
コトシュ遺跡「交差した手の神殿」壁面レリーフ

鶴見英成 (本館助教/アンデス考古学・文化人類学)

アンデス文明最古の宗教芸術
 アンデス文明を特徴づける壮麗な神殿建築、その登場は土器製作の開始よりも早い−この重要な知見は1960年、教養学部文化人類学研究室の組織した東京大学アンデス地帯学術調査団が、ペルー共和国ワヌコ県のコトシュ遺跡にて端緒をつかんだ。当時、文明の始まりの指標と見られていた「チャビン様式土器」よりも古くから多様な土器が製作されていたこと、さらに最下層のミト期(紀元前2500-1800年)の建築群に土器がまったく伴わないことを明確に示したのである。コトシュの名は今日でも「先土器神殿」研究の先駆として、またペルー山間部でのもっとも充実した研究成果の事例として必ず引き合いに出される。
 ミト期の「交差した手の神殿」は、基壇の上に据えられた一辺約9メートルの正方形の部屋である。人間の両手を交差させた形の土製レリーフが、左右一対となって内部の壁面を飾っていた。向かって左はより大柄なため男性、右は女性の手ではないかと言われている。このレリーフに込められた意味は定かでないが、同時代のセロ・セチン遺跡の彫刻にやはり「交差した手」が見られ、しかもそちらは上腕部で切断されていることから、人身供犠のテーマに関係しているように思われる。なんにせよアンデス最古の宗教芸術を代表する作品と言って良い。発見当初から大きく報道され、長らく歴史教科書の冒頭を飾っていたため、ペルーにおける知名度はたいへん高い。
 発掘を終了する際は通例、風雨によって崩落しないよう発掘坑を埋め戻す。「男の手」が出土した1960年の第1次発掘のあと、交差した手の神殿も土で覆われた。しかし一目見たいと地元住人らが何度も掘り返した結果、「男の手」は崩落してしまったという。この事故をふまえてペルー文化庁は63年に「女の手」が出土した際、壁から切り出すよう調査団に指示した。切り取られた「女の手」は現在も首都リマの国立人類学考古学歴史学博物館に展示されているが、対になる「男の手」の姿はそこにない。また交差した手の神殿はその後観光地として整備され、かつてレリーフの施されていた壁面に一対の手が再現されているのだが、節くれ立っていて似ても似つかない。発見当時から広く注目を集めながら、じつは地元ペルーには正確なレプリカが存在しなかったのである。
 本館文化人類部門には調査団初期の資料が収蔵されており、その中に一対の「交差した手」の石膏製レプリカ、およびその原型となった石膏型がある。オリジナルが現存しない「男の手」も、崩落前に発掘現場で壁面から型が起こされていたのである(図1)。これらをもとに正確なレプリカを新規作成し、ペルーで展示するならばたいへん意義深い企画となるだろう。恰好の会場もある。東大調査団が1988年より発掘したクントゥル・ワシ遺跡の傍らに、94年に建てられたクントゥル・ワシ博物館である(ウロボロスVolume 2/Number 1参照)。館長の大貫良夫先生(教養学部名誉教授、本館終身学芸員)はかつてのコトシュ発掘のメンバーで、快諾をいただくことができた。かくして新大陸初の海外モバイル計画は昨年5月末ころ具体化し、夏の調査の際に持参できるようレプリカ製作を始めることにした。
 
「手作り」
 今回のレプリカは、オリジナルの石膏型をもとに私自身が作ることになった。まず素材選びであるが、貴重な型に離型剤や石膏を流し込むことは避けた。事故を恐れたこともあるが、何より石膏型に染みこんだ発掘調査時の土の色を損ないたくなかったのである。そこで型の表面をラップで保護し、ラップ越しに石粉粘土(パジコ社ラドール・プルミエ)を押しつける安全策に行き着いた。粘土は乾燥時に収縮するのが難点だが、型の縁までかぶせて乾燥させ、最終的に余分な外縁を切除すれば問題ない。石膏型の微細な凹凸をラップ越しに写し取ることはできないが、本来このレリーフはなめらかな表面をしていたはずである。ざらざらした感触はむしろ埋没・発掘・型取りの際のノイズと割り切り、今回はなめらかな仕上げとした。もともとエッジの甘い造形なので違和感はなかったが、崩落部分の縁などは鋭く調整した。少しずつ作業を進め、一対のレプリカを8月のペルー出張ぎりぎりに間に合わせることができた。石粉粘土は軽く丈夫なので輸送も簡単、背面のソケットに金属線の簡易スタンドを取り付けるもよし、壁に掛けるもよし、これぞモバイル・モジュールの鑑−という意気込みであったが、素材そのままに真っ白、しかも簡便すぎるディスプレイでは存在感があまりに軽い。方策が固まらないままレプリカをスーツケースに収め、とにかく空港に向かう私であった。
 リマで長年ホームステイさせていただいているウーゴ津田さんは、ワヌコ出身の日系2世である。コトシュ発掘の時は10代の少年で、調査団の先生方に可愛がられていた。到着してさっそく私はレプリカを食卓に並べてお見せした。「僕は運がいい。63年、現場から切り取られた『交差した手』はまず、うちに持ち込まれてしばらく保管していた。今度はレプリカが真っ先にうちに来たよ」とウーゴさんは感慨深げであった。いまも「交差した手」はワヌコ市民の、また東大調査団の支援者たる日系移民の誇りなのである。
 クントゥル・ワシ博物館に到着した私は遺物分析や遺跡踏査を繰り返すかたわら、展示の検討を進めた。まずレプリカの色であるが、植物染料によって―早い話、コーヒーである―染めることにした。かつて文化人類部門に所属した丑野毅先生(東京国際大学教授)が得意とした方法である。ほかの植物も検討したが、「交差した手」の色調としてコーヒーに勝る素材はなかった。問題はレプリカがやたらと大きいこと、そして石膏製ならともかく粘土製なので、たちまち表面が溶けて余計な模様が残ることだ。同じ素材でテストピースを多量に作ってコーヒーの濃度を試行錯誤し、表面に溜まってしまうコーヒーの処理方法を検討した。最終的に、運搬に使ったスーツケースを転用して22リットルの激濃コーヒー(飲用の約6倍)のプールを用意し、一瞬くぐらせ(図2)即座に余計なコーヒー溜まりを紙で吸い取るという緊迫した作業になった。苦労の甲斐あって大貫先生から、実物に近い色調とのお墨付きをいただいた。
 ディスプレイについてはいくつか考えがあったが、重厚な台座を作成して垂直に立てることにした。当初台座の素材は石と考えていたが、隣村サン・パブロに腕のよい家具職人がいると聞き、図面を持参して木製台座を発注した。展示ケースは地方都市カハマルカの工房に注文し、輸送の算段もついた。おおらかなお国柄ゆえ、いずれもいろいろと意に沿わない仕様で納品されてきて閉口したが、粘土やら薬品やら手元の備品を総動員して補修し、9月25日に公開にこぎ着けた(図3)。
 
コトシュからモスキートへ
 80〜90年代にテロリズムの嵐が吹き荒れたワヌコ県は、現在ではペルーでもやや影の薄い地域であり、コトシュも観光地としては地味な地位に甘んじている。教科書にも最近は載らなくなり、若いペルー人は知らないことがある。発見から半世紀が経ち、地元ワヌコですら記憶の風化は進んでいる。「男の手」の崩壊やそれに伴う「女の手」の移転の経緯は忘れられ、「日本人が自国に持ち去った」「じつは黄金でできていた」などとまことしやかにささやかれているようだ。今回の展示を知ったワヌコの考古学者から「モバイル展示?次は当然ワヌコに来てもらいたい」と打診された。ぜひ検討しなければならないだろう。
 かつて東京大学がコトシュで切り拓いた先土器神殿というテーマは、90年代に海岸地方で続々と類例が発見され、カラル遺跡が世界遺産に指定されるに至って、アンデス考古学におけるもっとも華々しい分野に成長した。私はもともと土器研究が専門なのだが、近年本格的に先土器時代に首を突っ込むことになった。ヘケテペケ川中流域のモスキート平原にて、私も先土器神殿群の発見者となったためである。「最古」という言葉は一種の呪縛であり、この時代を専門とする研究者は、互いに古さを競う風潮がなきにしもあらず、である。さる著名な先土器神殿の調査者にモスキートの発見を告げたところ、「私の遺跡ほど古いわけはない」と切り返された。それで構わない。年代測定によるとたしかに、私の発見した神殿は先土器時代の末葉に対応するが、予想通りの測定結果に私はほくそ笑んでいる。私の仮説が正しければ、この1000年のタイムラグは文明形成過程を解く重要な鍵なのである。これから数年間をかけて発掘を重ね、話題性に走らず骨太な研究成果を世に問うつもりである。
 しかし時には「壁面レリーフが見つかるかも」などと夢想することがある。古くはプンクリ遺跡、最近ではブエナ・ビスタ遺跡、サン・フアニート遺跡、セチン・バホ遺跡…各地の先土器神殿で、見事なレリーフ装飾が続々と報告されているからである。とりあえず発掘機材リストには石膏を加えておかねばなるまい。





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図1 手前が発掘現場で「男の手」の実物から取られた石膏
型.実物が崩壊した現在、その形状をとどめる貴重な資料で
ある.右奥はそこから60年代に作られた石膏製レプリカ.
左奥が今回作成された石粉粘土製レプリカで、まだ染
色前の状態.


図2 コーヒーでレプリカを染める.やり直しのきかない一回
勝負.


図3 完成したモバイルユニット.左が「男の手」、右が
「女の手」.


図4 博物館を支えるクントゥル・ワシ文化協会の村人達や警
察官らと開会式展.事前の広報活動の甲斐あって、オープン
と同時に観光客の姿も.展示ケースより右に1人おいて
大貫良夫館長(後)とテレサ夫人(前).