鶴見英成(本館助教/アンデス考古学・文化人類学)
神殿のかけら、研究のかたち
古代アンデスの神殿建築は神話世界のイメージに満ちていた。石積みの壁や階段の表面に、また床面からそびえる立像として、超自然的な半獣半人の姿などがしばしば彫刻されていたのである。また現在では石材がむき出しになった壁も、本来は粘土や漆喰で上塗りされていたケースが多く、そこに彩色壁画やレリーフとして神話的テーマがしばしば描かれていた…らしいのだが、土中に埋没する過程ではがれ落ちてしまうことが少なくなかったようだ。しかし東京大学のアンデス調査団はかつて、壁面に原型をとどめたレリーフを2つの神殿遺跡で発見している。コトシュ遺跡の「交差した手」のレリーフ2点は丁寧に埋められたおかげで保存されていたケース、クントゥル・ワシ遺跡「蛇のレリーフ」は多数あったうちの一部が幸運にも生き残ったケースであるが、注目すべきはいずれも山地の遺跡だという点だ。
故・泉靖一教授が組織した東大調査団は1960年いらい、文明形成期(紀元前3000〜50年)を主たる研究テーマとし、一貫して山地の大神殿を調査してきた。アンデス考古学界では短期間・小規模な発掘の事例が多いなか、何シーズンもかけて広い面積を掘り下げる調査方法により、厚いデータの蓄積に根ざした強固な議論を展開してきたのである。乾いた砂で覆われた海岸部の遺跡とはちがい、数千年も降雨にさらされた山地の堅い土中から、保存状態良好な粘土造形物を掘り当てるチャンスはきわめて少ない。いかに深く、広く、そして慎重に掘ったのか…「交差した手」と「蛇のレリーフ」は、東大の研究者たちのテーマと注いだ心血を象徴する「研究のかたち」である。
出土した遺構をその場で展示空間に囲い込む場合を除けば、建築装飾は本来の文脈から切り離されて博物館資料となる。本館は拓本やレプリカの形で資料化したアンデスの神殿装飾をいくつか収蔵しており、そのような「神殿のかけら」を整理しつつ随時新規作成してきた。現在拓本の一部は小石川分館で、そして先述のレリーフ3点のレプリカはペルーで展示されている。3点はそれぞれ事情があり、これまで地域住人の目に触れる機会がなかったのである。
クントゥル・ワシ博物館
2012年の「コトシュ遺跡『交差した手の神殿』壁面レリーフ」展(ウロボロスVol.17/No.4参照)はちょうど1年で幕を下ろした。地元と直接関係ない資料であったが、博物館を運営する村人たちからは別れを惜しむ声も聞かれた。第2弾はいよいよ地元クントゥル・ワシ遺跡の「蛇のレリーフ」である。蛇と言っても頭部はほぼジャガーのそれで、体側から別の小さな頭が生えた怪物である。赤やオレンジの顔料が付着し、かつては極彩色であったことがうかがわれる。1997年にコパ期神殿(紀元前550〜250年)の壁面に貼り付いているのが発見されたが、保存のために埋め戻され現在も土の下にあるので、当時の作業員以外は写真でしか知らない。展示品は調査記録をもとに新規作成したレプリカで(図1)薄い上半分だけ日本で作ってエレキギターのハードケースに梱包して持参し、現地調査の合間に宿舎で夜な夜な分厚い下半分を作り足した。着脱可能な木製台座は昨年と同じ家具職人の作だ。
9月29日、「クントゥル・ワシ遺跡コパ期神殿『蛇のレリーフ』」展がオープンした。片田舎のクントゥル・ワシ村での除幕式は後述のワヌコ市と比べると実にささやかなものだった。しかしクントゥル・ワシ博物館には今年より青年海外協力隊員が派遣され、展示の見直しやホームページの開設など今まさに新風が吹き込まれようとしている。モバイル展示についても今後の反響を楽しみに待つこととしたい。
国立ワヌコ大学附属博物館
−ワヌコには怠け者の象徴が3つもある…「眠れる美女(のシルエットに見える山)」、「(街を見下ろしているだけの)奇岩ピルカモッコ」それに「(手を動かさない)交差した手」だ−
こんなジョークにまで半世紀前の東京大学の研究成果が登場する。自分を差し置いて首長の座に着いたのを妬み、弟が兄の両手を斬り落としたという「起源伝説」までもいつのまにか現れた。今夏のペルー滞在中、買い物の釣り銭で「交差した手」の硬貨(ウロボロスVol.18/No.1参照)が私の財布に入ってきた。公園化されたコトシュ遺跡はワヌコ市街に近く、市民がサッカーやピクニックに興じ、「交差した手の神殿」にも見学者が絶えない。調査団長の名はセイイチ・イズミ通りという主要街路(iの音が詰まってセイチスミと発音される)のおかげで子供でも知っている。しかしなぜ「手」がいま街にないのか、そもそもどんなものだったのか、人々は忘れ去ろうとしていた。
クントゥル・ワシ博物館から取り出したレプリカ2点はワヌコ出身の考古学者セサル・サラの手でワヌコに運ばれ、追って私も数日後、首都リマからワヌコ空港に飛んだ。ホテルの送迎車を運転するフロント係の若い女性に旅の目的を訊かれ、しぜん「手」の話題になる。
「ひとつはリマにあるんでしょ?」正解。
「もうひとつは日本ですって?」不正解。典型的な誤解であるが、「黄金でできてたんでしょ?」と続かなかっただけましである。何やら稀少なものを中央政府と外国に持ち去られた、という被害妄想がいつしか生まれ、親から伝えられた若者たちの間で常識化しつつあるのだ。
セサルや国立ワヌコ大学附属博物館との協力で実現した「コトシュ遺跡『交差した手』の歴史」展では、考古学の成果に加え、50年前の東大の活動や「手」を巡る現況にも光を当てるべく、本館所蔵の写真や紙資料が初公開された。発掘現場にそびえる高さ10mの物見やぐらの写真、「男の手」出土当日の大貫青年(後述)の発掘日誌、何者かに壊された「男の手」の無残な姿、同じ轍を踏まぬよう「女の手」を切り出しリマに運ぶよう指示した政府の文書。酒豪・泉靖一の「アンデスの牡牛」というあだ名など、日本の書籍でしか読めなかったエピソードも登場した。そして別々に発掘され引き裂かれた「男女」が、レプリカとはいえこの地に約4000年ぶりに並び立つ歴史的瞬間…目指したのは来館者が歴史を肌で感じられるような展示である。
10月3日、当時の調査団員である大貫良夫先生(本学名誉教授・本館終身学芸員)の講演には200人以上が集まり、講堂の1階も2階も立ち見が出た。巨大なワヌコ市旗と日本国旗を配した博物館中庭でさらに膨れあがった観衆を前に、ワヌコ大学学長と大貫先生、私がロープを引いてレプリカを除幕した。小学生のオーケストラと合唱団の演奏が始まったが、まともに聴く余裕はなかった。セイイチ・イズミの弟子と孫弟子ということで、大貫先生も私も質問攻め・記念写真攻めでもみくちゃにされたからである。東京大学の研究がこれほどの敬意と愛着をもって語り継がれている土地は、世界にいくつもないだろう。とくに若者たちの参加が多く、その熱心さに労が報われた思いであった。
除幕の翌日、割り振られた展示室に展示ユニットを移した(図2)。レプリカとパネルだけでは空間をもてあまし気味である。今後もワヌコに通いながら随時アップデートすることになるだろう。