遠藤秀紀(当館教授/遺体科学)
死体の無制限無目的収集が、博物館を支えている。目的を限定し、収集範囲を狭めた“コレクション”形成は、一見行革的合理性を満たすかのような言われ方をされるが、所詮は安物買いの銭失いに過ぎない。収集を徹底して行わない博物館に未来は無い。文化と学問が衆愚的な合理主義に迎合すると、何ものも生み出さないという悪例の典型である。
他方、大量の死体収集は、博物館バックヤードでの緻密な研究と飽くなき標本化作業が伴っていなければならない。本年の学芸員専修コースは、動物死体から研究を遂行し標本を作る際に生じる様々な課題や難問を思慮・論議するために、教育プログラムを実施した。
専修コースは単に標本づくりの技術・技法を学ぶ場ではない。博物館や生涯教育を支える人間は、館外園外の剥製師や模型職人と異なり、確かな理念、知識、考え方、研究能力を備えて、標本利用の哲学、実務、将来構想を自ら確立できなければならないのである。その力を蓄えるために開く今年のコースは、本質的には技法を知るためのものではなく、博物館とは何か、生涯教育とは何かを最も深い水準であらためて考慮するためのものであるといえる。
講座では、小さい齧歯類を用いて皮革の処理、仮剥製づくりを始めた。実際世の中の皮革処理の最高水準は、皮革衣料をつくるなめし皮職人によって支えられている。かつてはいわゆる剥製師をサポートスタッフとしていくつかの博物館が雇用していたケースもあるが、現在、博物館研究者がその技量に達することはほとんどない。
しかし、どんな学芸員であっても、研究と教育に使われる仮剥製は常時完成させられなければならないだろう。皮革処理の高度な技術と考え方は、自然史博物館や動物園が必ずや携えねばならない基本的能力である。
一方、博物館で働いている限り永久についてまわるのが標本の防虫である。仮剥製の防虫は単純な基本だが、防虫のすべてともいえる。一例だが、古い博物館へ行くと、亜砒酸を使って防虫した剥製に出会う。使われていたのは微量で人が死ぬほどの猛毒であるが、昨今の毒物管理や労働衛生などに照らして古い時代がただ愚かだと考える人間は、博物館人としては失格である。何としても文化を知を未来に残そうとした先人の使命感とプロ意識は、たまたま今の時代に誰かが安易に作文する労働安全や劇毒物の“新しいルール”よりも、人間社会の営みとして誇りに思うべき意義深い足跡である。
博物館とくれば骨格標本といわれるくらいに、骨はミュージアムのシンボルである。だが、多くの博物館・生涯教育の現場で、骨格標本の導入は困難が待っているといえる。第一に動物死体の研究教育の現場への導入が難しくなっている。要因は明確で、そもそも博物館が死体を必要な時だけ手に入れて、標本として合理的に運用しようと考えた段階ですべてが破綻する。死体は知の源泉であって、学者が文字通り命を懸けて研究し、動物学・解剖学上の新しい理論を生み出し、それが最後に収蔵庫や展示場に収まるのである。死体を日常の宝物として粘り強く大切にする学問を育てない限りは、死体から標本を作ること自体が、所詮は年度末の道路工事の如き孫請けの一過性の出来事に霧消してしまう。日本の博物館のほぼ全てが、博物館といえば展示のことしか考慮せず、しかもそれを土木箱物事業ととらえてきたがゆえに、世の中の現実の場面で、死体は学から切り離された展示企業体のエクセルシートの一項目としてしか扱われてきていない。まずは一部始終を理として学び、あるまじき現実の慣習を解消して、死体とともに博物館づくりに取り組む姿勢を考えるところから実習を始めることにした。
死体や骨をめぐる日本的な悪慣習をのりこえるべく、受講者とは、骨格を並べる以前に、死体への科学的好奇心を膨らませることから論じた。死体の導入が成功するか否かは、すべては深い科学性にかかっている。死体から新知見を導き出すことは確かに容易ではないのだが、解剖学はつねに体の謎に挑戦してきた学問である。骨を作り始める前に、目と指先と、メスとピンセットで新しい発見に取り組まねばならない。
本実習では、タヌキ、アナグマ、アライグマなどの死体から、身体構造をどう認識し、謎をどう解いていくかを考察してみることとした。
もちろん一週間の実習で、解剖学が身につく訳ではない。だが、幸、今年は動物園獣医師の参加が少なくなく、死体に対する一定の知識が備わっていることもあって、死体の見方を深く考慮することができた。今年のコースでは、運動器が最良の実習テーマとなった。タヌキに代表される中型肉食獣のたとえば頭部や四肢を観察するとき、筋肉の起始と終止、走行、機能が適した実習内容となる。骨の大きさ、形状、関節の位置と可動域を確認することで、存在する筋肉の機能が推察できる。そして運動器の基本的な性能、いわゆるスペック推定が可能となる。
筋肉の出す力は、筋の断面積、質量、形状、走行方向などを検討することで決定できるので、解剖学者たちは、時に死体から外した筋肉群と格闘する。専修コースは必ずしも、筋骨格運動の推定作業に深入りすることはできないが、死体が生み出す研究の代表的場面を経験してもらえれば幸いだと考えた。
もちろん死体には筋肉以外にもあまたの軟部構造がある。内臓、血管、神経など、まるで宇宙のような深い世界が身体の中に広がっている。死体のすべてを学ぶというよりは、専修コースを受講する専門家たちには、死体がやっかいな廃棄物だという凡庸な通念を乗りこえて、粘り強く、謎を問いかける話し相手であるということが理解できていれば幸いである。ただ骨づくり技法を学ぶだけであれば、標本商にでも弟子入りすれば事足りる。博物館で我々が目指すのは、好奇心をもって死体と対面することで培われる、まさに知の創生である。
さて、死体とどう接するかを考えたところで、晒骨の実際を知らねばならない。受講者には、当博物館で運転されている様々な製骨動具を体感して頂いた。
体重1、2トンクラスの死体、たとえば、キリン、サイ、スイギュウなどに使われるのが大型の製骨機である。イノシシやタヌキ、ニワトリクラスなら、学校給食の現場にある大型の調理鍋が適用できる。埋葬処理を経験する日程的余裕はなかったが、大型サイズから数百グラムの死体まで、骨格づくりの手順を見ることができたであろう。
ちなみに作業中に人気があったのはオリックスの死体である。アフリカ原産のこのウシ科は、動物園で死んだ個体を譲り受けた。当研究室にとっては、日常の活動の実例ともいえる収集体だ。野球チームのマークで知名度が高いと思われるが、博物館や動物園の専門職員でも、長く鋭い角をもつこの貴少種に死体解剖の場で接することはほとんど無かったに違いない。理論や考え方のみでなく、とある死体との出会いによって印象に残る時間が過ごせていれば、指導する側も嬉しく思う。
CTスキャナーと関連画像処理に関する実習も進めた。死体から研究テーマを立ち上げ、最終的に標本化を実行するとしても、近年の客観性の水準からすればCTによる三次元形状情報の導入は必須である。実習ではCTによって何が得られるかそしてそれがどういう理論構築に結びつき、最後には三次元情報が標本の付帯データとしてどういう意義をもち、標本の価値を上げていくかという論点を扱った。CTも画像解析コンピュータも、それ自体は道具でしかない。だが同じ道具であっても、それを科学的に使いこなせるかどうかが問われている。
実習が目指したのは、ゾウ、アリクイ、イルカやツチブタなどを例に三次元画像解析によって、死体への取り組みに加わった新たな可能性と、標本公開情報としての三次元データの価値を討議することであった。新しい道具というのは、時に古典的体系を大きく刷新するものである。CTが拓きつつある新しい標本と博物学の未来を、本実習を機に改めて模索したい。
標本というテーマの今日的議論は、アカデミズムと社会との関係にも及ぶ。昨今、コンプライアンス、アカウンタビリティ、ゼロリスクといった標語が乱暴な形で叫ばれ、社会と学問の関係に暗い影を落とすようになっている。動物の死体でいえば、それはいつの時代にも、たとえば動物園人やたとえば狩猟者のような、命を恵みとして受けとめる人々によって大切にされてきた。もちろんそれは、動物の命を見守ってきた動物園水族館や山の猟師と、学者・博物館が心を一つにすることで初めて標本として未来へ送っていくことができる。
コンプライアンスやアカウンタビリティを振りかざす今流の民間的合理的経営は、そうした社会との関係を平気で破壊していく。たとえば行き過ぎた知的財産権の考え方は、知の恵みとしての動物死体に対して、権限を創設し、公的施策として閉鎖的管理を開始しようとするだろう。死体処理を金銭的合理性のみで判断する“研究”すら生じかねない。公的研究プロジェクトだと称しては、動物園や猟師に向けて死体の遺伝子をさし出すのが当然の義務だと唱える乱暴なプランも湧き上がっては消えている。博物学・博物館の貧弱な日本では、必ずそうした拝金合理主義や順法画一主義がはびこるのである。本実習では、そうした軽率な社会の動きを生涯教育は看過してはならないという論議を進めた。博物館を営む者は、社会に対して主体者でなくてはならない。博物館や動物園のスタッフがただ骨をつくっていればいいという低水準の話は、このあたりで終わりにしたい。
総じて感じとられた事実だが、学生の教育に業績評価を過度に持ちこみ、大学に民間経営の色合いを導入したことで、博物館や動物園の若い職員の卵が歪な教育を受けるようになった弊害が見えてきている。学生も院生も、いまや発表した論文で奨学金優遇措置を受けられたり、より金目の研究環境が与えられたりするようになった。さらに彼らを教える機関自体が拝金合理主義に陥っている。もはや競争とは名ばかりで、十分な原資を持ち合わせない学術施策と経営が若者を金銭で翻弄しながら、自らの無力に合理性のアリバイを付与しているに過ぎない。その結果、解剖、標本、博物館そして広く生涯教育理念を軽んじる空気が教育の中に生み出され、真に大切な学の本質よりも、金を拝むことを大学が若者に教えている。当然の帰結として、標本を作り、それを収蔵し、未来の文化のために教育を育むということを教わらないまま卒業生が社会に出、それぞれの職場で自らの教育を創るために苦闘していると推察された。本実習が、そうした戸惑いや迷いを、若い学芸員や博物館・動物園の研究・教育職員がひとつひとつ克服していく際の一助になれば幸である。