鶴見英成(本館助教/アンデス考古学・文化人類学)
UMUTでの20年ぶりのアンデス文明展となる「黄金郷を彷徨う−アンデス考古学の半世紀」が、インターメディアテク特別展示として開催される。東京大学がアンデス考古学に着手してすでに半世紀あまりが経過した。その学術標本と、様々な古代アンデスの造形物を集めたこの企画を私は、限りなく美術展寄りの研究展示と位置づけている。
アンデス、最果てのミクロコスモス
南米大陸の中央アンデスは海洋・砂漠・沃野・高山・熱帯雨林などが箱庭のように凝縮され、さながら地球環境の縮図である。そこに人類がたどりつき、紀元前3000年頃にアンデス文明が発祥した。彼らはこの地で神殿・織物・土器・金属器などの人工物をほぼゼロから創り出し、大規模で複雑な社会組織を発展させた。「インカ帝国」が16世紀にスペイン帝国に侵略されるまで、彼らは他の文明と交渉を持たなかった。つまりアンデス文明とはさながら、この星に文明が生まれた過程の再現実験であり、人類史上きわめて興味深い現象なのである。
しかし近現代の日本社会においてアンデス文明は、長らく一般教養の外に置かれていた。中米のメソアメリカ文明も同様であるが、歴史上ヨーロッパ文明の軍門に下った敗者であったため、その偉大さが過小評価されたことが一因であろう。またおそらく、ユーラシア東端にとどまった日本人にとっては、太平洋の向こうに消えていった人々の物語というのは、自身のルーツと関係ない事象として痛痒なく切り捨ててしまえるからではないだろうか。
アメリカ考古学・人類学・歴史学研究者が訴えかけ続けた成果として、平成25年度より高校の世界史教科書から遂に「四大文明」の語が消えた。文明の起源はアフリカ・ユーラシアだけではないのであり、これから我々の歴史認識はより豊かなものになっていくであろう。振り返ればその土壌を作ったのは、かつて古代アメリカに心酔し、道を切り拓いた日本人たちであった。
さまよえる日本人
ある者はその造形美術の巧みさに、ある者はその人類史上のユニークさに、そしてある者はその風土を愛してやまず、研究や収集や地域振興に生涯を捧げた日本人たちがいた。実業家としてペルーで活躍する中で古代史に惹かれ、自身で収集と研究を重ね、多くの日本人に道を開いた天野芳太郎(1898−1982)。地元の初代村長として、世界遺産マチュピチュ遺跡の隆盛の礎を築いた日系移民・野内与吉(1895−1969)(野内セサル良郎氏の寄稿を参照)。商用旅行先で出会った未知なる文明の美に衝撃を受け、日本国内に中南米美術の一大コレクションを作り上げた森下精一(1904−1978)。そして日本で初めて新大陸考古学に着手し、今日へとつながる後進の教育につとめた東京大学調査団の泉靖一(1915−1970)や寺田和夫(1928−1987)らの研究者たち(図1)。彼らの多くは古代アンデスの知識がほとんどないまま現地に踏み込み、心を奪われてしまった。と言うより、1960年代以降の日本においてアンデスの存在がわずかなりとも知られるようになったのは、彼らの発信のおかげである。
不帰の客となった彼らの物語と、これまで半世紀あまりにおよぶ東京大学の研究成果、そして今後の展望を紹介するのが本展の趣旨である。会場において時空を超えて交錯する、5つのミュージアムを軸として展示の概要を紹介しよう。
天野博物館(1964年〜)
天野芳太郎は世界を股にかけ比類なき商才を発揮したが、同時に歴史・古代史への関心が高く、古代アンデス美術の収集・研究に生涯を捧げるようになり、ついにはペルーに骨を埋めることとなった。その超人ぶりは『天界航路−天野芳太郎とその時代』(尾塩尚 1984年)を参照されたい。本展では遺品のカメラを展示するのみだが、氏の生涯を語る上で重要なアイテムの一つである。
彼の創設した天野博物館はリマの閑静な住宅街にある。1996年、私が初めて訪れたときにはその死から14年が経ち、氏が日夜情熱を傾けた研究室は今では静かな収蔵庫であった。本展にも多数展示されている通り、アンデス文明は鐙型ボトルという奇妙な形の土器を産みだしたが、私はその使い方や作り方に関心があり、何日も通って土器を撮影させていただいた。とくに作り方を解明するには内部を観察するほかなく、割れ口から中を覗くなど存分に分析させて下さったのである(成果の一端は2001年の『真贋のはざま−デュシャンから遺伝子まで』展に還元されている)。一般来館者にも希望があれば展示品を手に取らせるというのが創立者の理念であったが、新参の学生にあそこまで研究の機会をいただけたことは本当にありがたかった。彼の情熱こそが日本のアンデス研究の引き金であったが、その没後も博物館を拠点に、研究者への支援は続いているのである。
東京大学総合研究資料館(1966年〜)
教養学部文化人類学研究室の泉靖一助教授(のち教授)はペルーで天野芳太郎と巡り会い、齢四十にして考古学を志した。寺田和夫助手(のち教授)らとともに、数年のうちにペルー全土の考古学踏査を実現し、文明の形成過程の解明をテーマに据えて、1960年に神殿遺跡コトシュの発掘にこぎ着けた。そして神殿の成立は土器の導入より古いということを初めて明らかにし、アンデス最古の宗教美術として名高いレリーフ「交差した手」を発見するなど大きな成果を挙げ、アンデス調査の継続発展を決定した(ウロボロス17(4)、18(1)(3)参照)。泉団長の没後、調査団を引き継いだ寺田団長は、カハマルカ県のワカロマ遺跡で大きな成果を上げ、いらい日本のアンデス考古学はカハマルカ県を中心に発展してきた。
彼らはペルー政府と折衝し、限定的ではあるが考古資料を日本に移し、後進教育のためにと開館したばかりのUMUTに収蔵した。美術品としては決して一級品揃いではないが、種類や収集地が多様なため学術的価値は非常に高い。この数年有識者と共に織物の分析を進めてきたが、断片的な裂が多いものの、織りや染めの技法の多様性においてはペルー国内のコレクションに比肩しうる贅沢さである。70年代より考古美術が国境を越えることは難しくなり、まさしく彼らの意図したとおり後進にとって貴重な資料となった。私も卒業論文のためにUMUTで資料を観察させていただいた身である。コトシュやワカロマの輝かしい発掘成果とともに、UMUTに遺したコレクションは両教授の大きな遺産と言えよう。本展では「交差した手」レプリカならびに土器や織物の一部を展示する。
森下美術館/BIZEN中南米美術館(1985年〜)
創立者・森下精一は瀬戸内海に面した日生町で製網を中心に多くの事業を展開していた。地元の備前焼をはじめ古美術への関心が高かったが、65歳の時に南北アメリカへの商用旅行の途上で漁網取引の相手であった天野芳太郎を訪ね、古代アメリカ美術に目覚めた。そして自身の審美眼を頼りに収集を始め、地元に美術館を建てて一般公開するに至った。
日本国内に中南米美術の大きなコレクションがいくつか知られるが、多くは首都圏から遠い。学生時代は遠出の機会にいろいろ訪問したが、2000年5月には学会の懇親会を1次会で失敬し、大阪から森下美術館(現・BIZEN中南米美術館)へと向かった。前泊しようと降り立った相生の町は折悪しくペーロン祭で賑わい、ホテルが満室であったため、松本雄一氏(山形大学)と安酒を酌んで夜を明かした。翌朝、逸品揃いの森下コレクションを前にして眠気も酒気も吹き飛んだ。アンデスの出土品ももちろんだが、圧巻なのはアンデスとメソアメリカの間、中間領域と呼ばれる地域の資料の充実で、ニコヤ・ポリクローム土器って日本にこんなにあったんだ…などとしばし感慨にふけった。民宿に一泊して翌日も通い、二人がかりでアンデス形成期の土器をすべてスケッチさせていただいた。この時とくに印象に残った土器のいくつかを、今回の特別展にお借りしている。そのひとつ「動物刻文鐙型ボトル」(図2)は、鐙型注口や胴部のバランス、色、磨研の状態など、クントゥル・ワシ遺跡コパ期神殿に特徴的なものだ。クントゥル・ワシは山地にあるが、その陶工が製作し、山を下ったヘケテペケ川流域で死者に供えられたのであろう。これ以外にも今回の展示品のいくつかは、東大と縁の深いヘケテペケ川流域の出自と思えてならない。案外私がテンブラデーラ村で発掘した神殿の、神官の持ち物かもしれない。
クントゥル・ワシ博物館(1994年〜)
1989年、カハマルカ県クントゥル・ワシ遺跡での黄金製品発見は、東大調査団にとって大きな成果であるとともに難題であった。団長の大貫良夫教授らは、地元で「宝」を保管したいという村人と、当然首都で管理すべしという政府の間で調整を重ね、日本での展覧会を通じて資金を準備し、クントゥル・ワシの寒村に博物館を創設した。黄金というモノが牽引力となって博物館が誕生したのである。
本展ではそれら黄金製品のレプリカを展示している。とくに97年の出土品(表紙参照)のレプリカ5点は昨年ペルーで製作したもので、これが初公開となる。私が初参加した96年と翌97年は墓から黄金製品の出土が相次いだ。人骨の取り上げには細心の注意を要するが、その下に見え隠れする黄金装身具は、何日も発掘現場に放置してよいものではない。夜間はわれわれ学生が交代で遺跡に登り、墓の脇で寝ずの番をつとめた。無事墓から取り上げた後も政府との連絡、安全対策、マスコミ対応、地元住民への速やかな情報公開など、対応に忙殺されるのが黄金製品である。私は現在自分の調査団を指揮しているが、不意に黄金が出土したらと思うと心底恐ろしい。アンデス考古学の華ではあるが、黄金をめぐる考古学者の現実はそういったものである。
黄金を中核に構成されたクントゥル・ワシ博物館は、研究室や交番などを漸次併設し、落ち着いて研究に打ち込める施設となった。私も毎年お世話になっている。民間有志の「希有の会」という支援組織や青年海外協力隊員らに支えられ、2014年には20周年のリニューアルオープンを果たした。私もUMUTを代表して土器の専用台座作りなどに協力した。
東京大学総合研究博物館(1996年〜)
「総合研究資料館に関する懇談会」が発足し、資料館から大学博物館への変革が準備されつつあった1994年、『文明の創造力−古代アンデスの造形美術』展が開催された。ペルーの蒐集家エンリコ・ポリ氏のコレクションから選りすぐった資料群で、とくに東大の研究テーマである形成期が主体の内容であった。私は奇妙な土器の数々に圧倒され(のちにリマのポリ邸に改めて見学に行った)大学院進学後はまず形成期土器の研究を志し、またそれらの品々の出土地とされているテンブラデーラ村で今日まで調査を続けている。またこの展示タイトルは、1998年に大貫良夫教授の退官記念出版の書名にもなった(『文明の創造力 古代アンデスの神殿と社会』加藤泰建・関雄二編 1998年)。神殿というモノがいかに社会に影響し、文明の形成に一役買ったのかについて体系的に論じた、コトシュ発掘以来の研究の集大成である。学部生時代の私には分かっていなかったが、文明形成のメカニズムの解明という問題意識があの展覧会に籠められていたのだと、のちに感慨深く思ったのだった。
2009年に私は正式にUMUTに出入りする身となり、11年に併設展『連続展示 アルパカ×ワタ』を企画させていただいた(ウロボロス16(1)(2)参照)。そして今回が初めての特別展担当である。
インターメディアテク(2013年〜)
古代史研究を志す動機はいろいろあろうが、土器片や古墳などモノをきっかけに、という考古学者はつねに一定数いるだろう。とはいえ若くしていきなりペルーに乗り込む日本人はそうそういない。本稿で挙げた先人たちが日本で何度も展覧会を企画してくれたおかげであるが、私や同世代の友人たちと同様、アンデス文明はまずはミュージアムで出会うものなのだ。私が今回の展示を限りなく美術展寄りの研究展示と位置づけるのは、モノの魅力が直接、研究の原動力となるからである。そのためには展示物は一級品でなくてはならず、BIZEN中南米美術館にご協力いただけたことは幸いであった。アンデスの造形美術がIMTという新しいミュージアムでどのように輝くのか、私自身もオープンが楽しみである。
最後に展示タイトルについて。踏み込めば抜け出せなくなる魔性を表す語を何ヶ月か練り、魔境だの異界だの迷宮だのと怪しげな候補をいくつも並べた末、一巡して最終的に腑に落ちたのが「黄金郷(エル・ドラード)」であった。歴史的出自としてこの語は中央アンデスを指すわけでなはく、むしろインカの黄金をむさぼり尽くした征服者たちが、さらに夢見た幻の土地のことである。彼らは密林に乗り込み、その多くが帰らぬ者となった。幸いにしてアンデス文明研究の黄金郷には、険しいながらも先人の拓いた道がある。なるべく多くの若い人が会場に来てくれたらと思っている。
会 場:インターメディアテク2階企画展示スペース 「FIRST SIGHT(ギャラリー1)」 主 催:東京大学総合研究博物館 協 力:BIZEN中南米美術館、天野博物館、クントゥル・ワシ博物館、 野外民族博物館リトルワールド 協 賛:ニューリー株式会社、日本マチュピチュ協会、 株式会社中日映画社 |